裏千家 今日庵

裏千家 今日庵

 

 

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裏千家 今日庵とは?(基本データ)

名前
裏千家 今日庵(うらせんけ こんにちあん)
エリア
北野・西陣
ジャンル

茶室 名勝

建立・設立
1591年(天正19年)、茶の湯を大成し織田信長や豊臣秀吉の茶の指南役として活躍した千利休が切腹
1594年(文禄3年)、利休の養子である2代目・千少庵(せんのしょうあん 1546-1614)が秀吉より千家復興を許され、拝領したこの地に利休ゆかりの「不審庵」などを復興、その後少庵の子で3代目・千宗旦(1578~1658)に譲られる
1646年(正保3年)、宗旦が不審庵のすぐ裏に「今日庵」を建てて隠居、宗旦の三男・江岑宗左(1613-72)が不審菴を継承し「表千家」の基礎が確立
(その後に四男・仙叟宗室が今日庵を次いで独立し「裏千家」を、また次男・千宗守が養子先から戻り「武者小路千家」をそれぞれ確立し三千家が成立する)
家紋
[定紋] 独楽紋
[替え紋] つぼつぼ紋
[その他] 銀杏(淡交会のシンボルマーク)
アクセス
  • 京都市営地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅下車 西へ徒歩約15分
  • 京都市営バス「堀川寺ノ内」(9・12・67号系統)下車 徒歩約3分
  • 京都市営バス「天神公園前」(9・12・67号系統)下車 東へ徒歩5分
  • 京都市営バス「堀川今出川」(9・12・51・59・67・急101・急102・201・203号系統)下車 堀川通東側を北へ徒歩約10分
  • JR「京都」駅より車・タクシーで約20分
駐車場
なし
拝観料
一般には非公開
お休み
-
拝観時間
-
住所
〒602-0061
京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613
電話
075-431-3111
FAX
075-441-2247
公式サイト
裏千家 今日庵
茶道裏千家 Facebook
茶道総合資料館
裏千家 露地 NHK新日本風土記アーカイブス

裏千家 今日庵の地図

裏千家 今日庵のみどころ (Point in Check)

初代 千利休

千利休(せんのりきゅう 1522-1591)は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した商人・茶人。
「茶聖」とも称され、織田信長や豊臣秀吉といった天下人に仕えて「侘茶(わび茶)」を大成させたことで有名であり、現在まで続く茶の流派「三千家(さんせんけ)」の始祖としても知られています。

1522年(大永2年)に大阪・堺の魚問屋「ととや」という商家に生まれます。
父は堺でも高名な豪商であったといい、16歳の時に店の跡取りとして教養や品格を身に付ける目的で茶の世界に入ったのが茶人となるきっかけでした。

その後、18歳の時に当時の茶の湯の第一人者だった茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう 1502-55)に弟子入りし、1544年(天文13)、23歳の時に最初の茶会を開き、師匠の影響もあり「わび茶」を大成させることとなります。

「わび茶」は室町時代に村田珠光(むらたじゅこう 1423-1502)によって誕生した茶の湯の様式で、秀吉の「黄金の茶室」に代表されるような高価な茶碗、茶道具や派手な演出などを排し、草庵風の茶室を完成させ4畳半の部屋にて茶を振舞うなど、極限まで無駄を削り、簡素静寂な境地、すなわち「わび」の精神を重んじたものです。

1568年(永禄11年)、大名支配の外にあって活気に沸いていた自由都市・堺に目を付けた織田信長(おだのぶなが 1534-82)は、堺とのパイプをより堅固にすべく堺の政財界の中心にあって茶人でもあった今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうぎゅう)、千利休の3人を茶の湯の師匠である茶頭(さどう)として重用します。

すると新しいもの好きで「茶の湯」を好み、また茶器などの道具にもこだわるなどした織田信長に倣って茶の湯に励む信長の家臣たちからも一目置かれるようになります。

その後「本能寺の変」にて信長が亡くなると、後を継いだ秀吉は信長以上に熱心に茶の湯に励み利休を召し抱えますが、その魅力に感化された家臣たちはこぞって利休に弟子入りし、細川三斎や織田有楽斎、高山右近や古田織部などの「利休十哲」と呼ばれる優れた高弟が生まれました。

そして1585年(天正13年)には秀吉の関白就任の返礼として催され天皇に自ら茶を点てた禁中茶会にて「利休」の号を天皇より賜り、それまでの千宗易(そうえき)から名を千利休と改め、更に1587年(天正15年)に秀吉が北野天満宮にて盛大に開催した「北野大茶湯」を司るなどし、天下一の茶人として全国に知れ渡りますが、しかし当時の最大権力者である豊臣秀吉に疎まれ、1591年(天正19年)、ついには切腹を命じられてしまいます。

二代 少庵

利休が秀吉から切腹を命ぜられて後、利休の先妻の子・千道庵(せんのどうあん 1546-1607)と利休の後妻の連れ子で千利休の養子で娘婿でもあった千小庵(せんのしょうあん 1546~1614)は地方に逃れます。

そして数年経過の後、徳川家康や前田利家らの取りなしもあって秀吉に許されて京に戻ると、秀吉から利休の遺物を下賜され、千家の後を継ぐとともに利休にゆかりのある茶室「不審庵(ふしんあん)」を再建。また大徳寺の喝食(かつしき)として仏門に入っていた息子の千宗旦(そうたん)を還俗させ、わび茶の普及に努めます。

ちなみに前後して道庵も帰京して利休の出身地である堺の千家を継ぎますが、こちらは道庵没後に絶えてしまいます。

秀吉の没後に家康の天下となると、小庵は家康に仕えて400石を受けますが、間もなく仕官を辞して西芳寺に隠棲し、小庵と利休の娘・お亀との間に生まれ、利休の孫にあたる千宗旦が千家を継ぐこととなります。

三代 宗旦(中興の祖)

千利休の孫にあたる元伯宗旦(げんぱくそうたん 1578-1658)は利休が大成したわび茶の厳しさを深く追求し、晩年には四畳半より更に狭い一畳台目(約2畳)の茶室「今日庵(こんにちあん)」などを建てています。

宗旦は祖父・千利休の悲劇的な最後を慮り、生涯にわたって大名家からの仕官の要請を拒み続け、亡くなるまで清貧を貫きましたが、、三人の息子たちにはそれぞれ紀州徳川家(表千家・宗左)、加賀前田家(裏千家・宗室)、讃州高松松平家(武者小路千家・宗守)に茶頭として仕官させ、精力的に千家の復興および侘び茶の普及に努めています。

四代 宗守・宗左・宗室 (三千家のはじまり)

その3代・千宗旦には四人の男子がいましたが、このうち長男・閑翁宗拙(かんおうそうせつ)は父と折り合いが悪くついには勘当されて父より早く亡くなったといい、また次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)は塗師へ養子に出されていたため、1646年(正保3年)、宗旦が隠居を決めた時、千家の家督および「不審庵」は三男の江岑宗左(こうしんそうさ 1613-72)が継ぐことととなります。

これが現在の「表千家」のはじまりであり、以降「宗左」の名は代々の家元に受け継がれることになります。

一方隠居した宗旦は屋敷の裏地に隠居所として新たに「今日庵」という庵を作り、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)を連れて移り住みます。
そしてその「今日庵」も後に一緒に暮らしていた四男・宗室に譲られることとなり、今日庵が三男・宗左の「不審庵」の裏手にあることから「裏千家」と呼ばれるようになりました。

また次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)も、漆屋から茶人として生きる道を選び、晩年千の姓に戻り、不審庵や今日庵より少し南に下りたところにある武者小路という道沿いに「官休庵(かんきゅうあん)」を造営し、建物の建てられた武者小路の通りの名前をとって「武者小路千家」を興すことになります。

こうして千利休の「ひ孫」にあたる4代目の世代のときに、三代・千宗旦の三人の息子たちがそれぞれ千家を名乗り「三千家」が誕生します。

もっとも三家の関係は悪いものではなかったようで、互いに養子を出し、共同で制度整備にあたるなど明治期に入るまでは同流派として認識され、実際に京都においては下京にあった「藪内家」を下流と呼ぶのに対し上京の「三千家」は一括りにして「上流」と呼ばれていたといいます。

その後時代が進むにつれ流派の次男や三男が独立するなどして多くの流派が誕生することとなったため、表千家第7代・如心斎(じょしんさい)が千家を名乗るのは表千家・裏千家・武者小路千家の嫡子とし、二男三男にはこれを名乗らせないと定めることを提唱し、他の二家もこれを了承します。
そしてこれによって茶道における千家は「表千家」「裏千家」「武者小路千家」の千三家に限定されることとなり、現在に至っています。

三千家の行事

行事としては大徳寺の塔頭寺院である聚光院(じゅこういん)にて毎月28日の千利休の月命日に三千家の交代で法要が営まれ、家元によって釜が掛けられます。
この点、聚光院は笑嶺和尚に参禅した千利休が檀家となって多くの寄進を行った利休ゆかりの寺院で、千利休の墓があるほか、三千家の菩提寺にもなっており、三千家の歴代の墓があることでも知られています。

または毎年3月27・28日には千利休の命日(旧暦2月28日)を偲んで大徳寺にて「利休忌」の法要が執り行われますが、これに合わせて裏千家では3月28日に追善茶会が催されます。

その他にも全国の神社仏閣などで「献茶式」の儀式が行われる際には、家元の奉仕により古式ゆかしい作法にのっとり神仏や御霊に献茶が行われます。

裏千家について

「今日庵(こんにちあん)」は京都市上京区小川通寺之内上る本法寺町、小川通沿いの本法寺の向かい、宗家である表千家の北隣にある裏千家家元の邸内にある茶室の名前。
またそれ以外にも今日庵を拠点とする茶道流派「裏千家」の別称ないしその機構全体の総称として、更には裏千家の家元である千宗旦の号としても用いられます。

茶室の今日庵は千利休の孫にあたる3代・千宗旦(せんそうたん)が家督とともに不審庵を三男・江岑宗左(こうしんそうさ)に譲った後に隠居所として1648年(慶安元年)に建てたものです。

名前の由来は、宗旦が亭主を務めた茶席に遅れた禅の師である大徳寺の清巌和尚に、所用があるからと明日の来席を請う旨を家人に言い残して外出してしまい、それに対して清巌和尚が書き付けた「懈怠比丘不期明日(怠け者の私のことなので明日のことなど約束できない、今日この一瞬が大切であるという意味)」という言葉からといわれています。
また表千家の不審菴の名前の由来にもなっている利休が参禅した古渓宗陳の禅語「不審花開今日春」に由来しているともいい、不審菴に続いたものであるとも伝えられています。

宗旦はしばらくの間今日庵に住んでいましたが、その後新たに建てた茶室・又隠(ゆういん)に移り、今日庵は宗旦の四男・仙叟宗室が譲り受けて新たな流派を興します。宗室が興した流派は今日庵が不審庵の北の裏手にあったことから「裏千家(うらせんけ)」と呼ばれ、以後は不審庵と家督を継いだ三男・宗左の本家「表千家」および次男・宗守が興した分家の「武者小路千家」と併せて「三千家」を構成することとなります。

この点、4代・宗室は1652年(慶安5年)に加賀藩前田家で当時は既に隠居の身であった前田利常に仕官して150石と小松城三の丸の屋敷を与えられ、その後1671年(寛文11年)に前田綱紀に茶頭として仕官し150石と金沢城下の味噌蔵町の屋敷を与えられ、以後は金沢と京都とを往復し精力的に活動し、裏千家の基礎を築きました。

そして以後の裏千家の当主は「宗室」を名乗るようになり、続く5代・常叟宗室も加賀前田藩に仕官したものの、後に職を辞して伊予松山藩松平(久松)家に仕官し、以後代々の家元は幕末まで加賀前田家・伊予松平家の茶頭を務めたといいます。

その後、江戸時代には相次ぐ飢饉や洪水といった自然災害や、幕府による奢侈の禁令や金融の引き締めなど逆風が吹く中で8代・又玄斎一燈(1719-71)は表千家7代を継いだ兄・如心斎天然とともに新たな稽古の方法として七事式を制定するなどし、茶の湯が大衆化していく中で各地の町人富裕層に広く普及させることに成功しており、千家中興の祖ともいわれています。

更に幕末から明治にかけて時代が大きく動く変動の時代にあって11代・玄々斎精中(1810-77)は、いち早く外国人を迎えるための立礼式の茶礼を創案するなど、時代に合わせた茶道の近代化を積極的に押し進めた人物でした。

続いて13代・円能斎鉄中(1872-1924)は明治29年まで6年にわたって東京に居を移して協力者を求め、京都に戻ってからも教本の出版や機関誌 「今日庵月報」などの発行を通して一般への茶道普及に尽力したほか、女学校教育の中に茶道を取り入れ、教授方針を一致させるための講習会を催すなどし、裏千家茶道の組織化にも力を注いだといいます。

戦後には14代・淡々斎碩叟(たんたんさいせきそう 1893-1964)により茶道の学校教育への導入が実現し、学校のクラブ活動で裏千家の茶道が教えられるようになったほか、各地の寺院・神社にて献茶・供茶を行ったり、海外への普及に取り組む、茶道の振興に取り組んだといいます。

1940年(昭和15年)にはそれまで全国に存在していた裏千家茶道のいろいろな会や団体をまとめ、宗家直轄の全国統一の同門組織として「淡交会」が結成され、1953年(昭和28年)に社団法人化されました。
家元指導方針を会員が尊守し、裏千家茶道の基本的な点前作法を全国的に統一し、茶道文化に関する研究調査を行うと共に、財団法人今日庵の目的事業の後援・振興と茶道を修好する方々の研修・福利厚生を図り、日本文化の交流発展に寄与するという目的どおりに組織化が進められた結果、現在の茶道人口の半分以上は裏千家門下といわれる、流派別の茶道人口としては最大規模を誇るようになりました。

ちなみに「淡交会」の名は14代・淡々斎の斎号に因んで命名されたもので、荘子の「君子之交淡若水(君子の交わりは淡きこと水の若し)」に由来するものといい、淡々としてあたかも水が流れるように何事にも執着せず、どんな時にも感情に流されない平常心の交わりを意味する言葉です。

現在の今日庵は、1788年(天明8年)に起きた「天明の大火」によって宗旦時代の茶室が焼失した後、9代不見斎石翁によりその翌年から1839年(天保10年)頃までに再建されたといいます。

茶道家元の雰囲気を醸し出している一間腕木門の兜門をくぐった先には国の名勝にも指定されている庭園が広がり、利休遺愛の三つ小袖石の手水鉢や利休灯篭などが配され、無色軒から又隠(ゆういん)、今日庵、抛筌斎(ほうせんさい)から対流軒にいたるまでの茶室遺構と一体となって山里の佗しさを感じさせるとともに、その歴史的な由緒の正しさと建築学的な貴重性もあって1976年(昭和51年)3月に裏千家住宅として重要文化財に指定されています。

裏千家 今日庵の施設案内

 

今日庵

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    兜門(かぶともん)

    裏千家今日庵を象徴する入口の門
    檜皮葺、竹樋の簡素な門構えが侘びた風情を具現化している

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    「千利休居士・千宗旦居士遺蹟今日庵」の石標

     

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    露地

    石畳

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    大玄関

     

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    無色軒(むしきけん)

    最初に通される部屋
    天明の大火後に再建

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    腰掛待合

     

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    外露地

     

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    中門

     

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    内露地

     

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    四方仏の蹲踞(よほうぶつのつくばい)

     

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    小袖の蹲踞(こそでのつくばい)

     

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    又隠(ゆういん)

    草庵風の利休好みの四畳半の茶室で、今日庵と並び裏千家の代表的な茶室

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    宗旦銀杏

    足下に又隠がある

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    今日庵(こんにちあん)

    宗旦が不審菴を江岑宗左に譲り隠居所として建てた茶室
    席開きの当日、時刻に遅れた清巌和尚が、 茶室の腰張りに書きつけて帰った「懈怠比丘不期明日」(懈怠の比丘明日を期せず)の意に感じて、 宗旦が今日庵と命名したという
    侘(わび)茶の趣をこらした、一畳台目と呼ばれる極小空間が特徴

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    御祖堂(清寂院)

    茶祖千利休居士と、三代宗旦居士を祀る
    大徳寺山門の楼上に置かれた等身大の利休木像と宗旦の小座像を床正面の丸窓の奥に奉祀

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    溜精軒(りゅうせいけん)

    寒雲亭と大水屋との間にある六畳
    除夜釜だけに使用される

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    寒雲亭(かんうんてい)

    宗旦の好みで造られ侘び本位の今日庵・又隠とは異なる書院造りが特色

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    咄々斎(とつとつさい)

    1839年(天保10年)に利休250年忌に際して玄々斎が造営した「稽古の間」を1856年(安政3年)に宗旦200年忌にあたり改修して咄々斎と改めた

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    大炉の間

    咄々斎の次の六畳間

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    梅の井(うめのい)

     

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    抛筌斎(ほうせんさい)

    利休居士250年忌に際し玄々斎が造営し、居士の斎号にちなんで席名とした

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    又新(ゆうしん)

    14代家元・淡々斎の還暦を記念し、同夫人の設計により新築

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    対流軒(たいりゅうけん)

    円能斎好みの広間

関連

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    茶道総合資料館(裏千家センター)

    今日庵の西側の堀川通沿いにある
    通常展のほか、春季(3月上~5月上)と秋季(10月中~11月下)に特別展を開催
    特別展ではテーマに応じて図録を刊行・頒布し、会期中に講師を招いて講演会を催している
    建物内には淡交会総本部および歴代家元の収集になる茶道関係文献の研究・保存機関として設置された今日庵文庫も

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    淡交社

    今日庵よりやや北の堀川紫明北東にある茶道関係、京都関係の書籍を出版する出版社
    裏千家14世・淡々斎家元の次男・納屋嘉治が設立
    裏千家と繋がりが深く、創立以来裏千家の機関誌である「淡交」を刊行している

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    裏千家学園茶道専門学校

    今日庵北側の小川通沿いにある専門学校
    1962年(昭和37年)に茶道研修所が設立された後、1971年(昭和46年)に裏千家学園が設立され、1976年(昭和51年)に専修学校、1983年(昭和58年)に学校法人裏千家学園茶道専門学校となり現在に至る
    茶道研鑽のための専門学校であると同時に、家元に直属する研修道場でもあるという

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    裏千家茶道会館

    本法寺の南側、小川通を挟んで今日庵の向かいにある茶道の総合研修道場
    1956年(昭和31年)5月に淡々斎夫妻の設計により竣工
    階上に舞台付の大広間、階下に高松宮殿下命名による「心花の間」「鵬雲の間」「佳松の間」や立礼席などがあり、夏期・冬期の宗家講習会などの研修が行われている

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    東京道場

     

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    東京茶道会館

     

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    北海道茶道会館

     

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    大徳寺

     

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    大徳寺 聚光院

     

他の茶道流派

千家十職

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周辺

裏千家 今日庵の主な年間行事・カレンダー

年中行事

1/1

大福茶(おおぶくちゃ)

正月年頭に飲むことで、一年の無病息災を願う
今年の最初に井戸からくみ上げられた若水を使い、大晦日から引き継がれた火に新しい炭を継いで家元が濃茶を点てる

1/7~1/12

初釜式

東京でも開催(1月16日~19日)

3/28

利休忌

三大忌

5月

初風炉(しょぶろ)

「炉」をやめて「風炉(ふろ)」を使い始めること

7/5

精中・圓能・無限忌

三大忌
裏千家11代玄々斎精中居士(1810-77)、13代圓能斎鉄中居士(1872-1924)、14代無限斎碩叟居士(1893-1964)の三宗匠の遺徳を偲んで行われる法要

8/1

八朔

「千家十職」の来庵日で、暑中見舞いの挨拶とともに点心などを家元と共にする

11月最初の稽古

炉開き(ろびらき)・口切

炉開きとは、茶人の家で陰暦10月1日または中の亥(い)の日に「風炉」をやめて「炉」を使い始めること
口切とは、茶壺の口を切り、初夏に摘んで寝かせていた新茶を初めて使うこと

11/19

宗旦忌

三大忌

月並行事

毎月28日

月命日法要・聚光院月釜

三千家が交代で千利休の月命日の法要を行う
裏千家は2・5・8・11月を担当

神社・仏閣における献茶式

4月中の1日

御香宮御献茶祭

三千家家元持ち回りにより献茶式

4/18

豊国廟例祭

毎年表千家と裏千家が交代で家元奉仕による献茶が行われる

4/25

知恩院 御忌大会 献茶式

表千家、裏千家、武者小路千家の三千家が交代で献茶

5/17

上賀茂神社献茶祭

賀茂祭斎行を奉祝し家元お手前による濃茶薄茶各一服を賀茂の大神様に奉り御心を和ませ奉る祭典
献茶式は1954年(昭和29年)より、表・裏両千家家元の隔年奉仕
境内に副席

5月下

下鴨神社 献茶祭

葵祭が無事に斎行されたことを神前に報告するもの
三千家家元の交替で奉仕

6/5

建仁寺 献茶式

栄西忌(開山忌法要)にともなう献茶式
裏千家家元による奉仕

6月中

泉涌寺 香淳皇后御祥忌法要

裏千家による献茶

7/7または翌月曜(7/7が土日の場合)

貴船神社 貴船の水まつり

午前10時から本殿で裏千家による献茶祭

7/16

八坂神社 祇園祭献茶祭 献茶式

1946年(昭和21年)にはじまり、裏千家と表千家が毎年交互に奉仕

10月第1日曜

宇治茶まつり 宇治興聖寺献茶式

栄西禅師、明恵上人、並びに茶業功労者の功績をたたえて行われる
表千家と裏千家の交代

10/6

石清水八幡宮 裏千家献茶祭

 

10/19

平安神宮 孝明天皇御鎮座記念祭

裏千家、表千家、薮内流、武者小路千家の各家元が毎年輪番で献茶奉仕
祭儀終了後は境内各所にお茶席

10/24

伏見稲荷大社 献茶祭

裏千家家元の奉仕により献茶の儀がとりおこなわれ、社務所をはじめお茶屋などに茶席

10/30

天龍寺 開山毎歳忌 献茶式

天龍寺の開山・夢窓国師毎歳忌にともなう献茶式

11/4

吉田神社 献茶祭

 

11月中

醍醐寺 献茶式

金堂にて三千家の持ち回り

11/22

大徳寺 献茶式

開山忌法要にともなう献茶式
三千家の交替で行われる

12/1

北野天満宮 献茶祭

藪内家・表千家・裏千家・武者小路千家・堀内家・久田家の4家元2宗匠が6年毎に輪番で、神前にお茶を供える

その他の茶会

6月上

下鴨神社 蛍火の茶会

裏千家ご奉仕によるお茶席の奉仕

7/7

七夕茶会

淡交社 茶室「龍翔庵」にて

10/6

北政所茶会

拝服席(裏千家・表千家)・煎茶席・太夫席・陣中席のお茶席が5席と点心席

10月第2日曜

松花堂忌茶会

表千家と裏千家が毎年交代でお茶席

10月下~11月初の3日間

二条城 市民大茶会

清流園で行われる恒例の茶会
三千家がそれぞれ1日ずつ
9:30~15:00

11月中

秋の上京茶会

場所は上京区の寺社色々
春は表千家、秋は裏千家が担当

花ごよみ

 

銀杏(イチョウ)

宗旦銀杏

裏千家 今日庵の口コミ

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