京都市北区一条通西大路東入ル大将軍川端町、一条通と西大路通の交差点を東へ入ってすぐの所にある浄土宗寺院。
正しくは「昆陽山(こんようざん)地蔵院」といいますが、「椿寺」の愛称で親しまれている寺院です。
その歴史は古く、奈良時代の726年(神亀3年)に聖武天皇の勅願によって、行基(ぎょうき)が摂津国伊丹の昆陽野池(こやのいけ)のほとりに建立した「地蔵院」がはじまりと伝わっています。
その後、平安時代に京都の衣笠山の南麓に移された後、室町初期の1391年(明徳2年)に起きた「明徳の乱」で焼失するも、地蔵院の荒廃を惜しんだ室町幕府3代将軍・足利義満が金閣造営の余財で再建し、地蔵菩薩を奉安。
そして1589年(天正17年)に豊臣秀吉の命によって現在地の一条紙屋川に移され中興されました。
ちなみに元々は地蔵菩薩を本尊としていましたが、江戸時代に五劫思惟の阿弥陀仏を祀るようになり現在も本尊となっています。
地蔵堂に安置する地蔵菩薩は行基作で創建当初からのものと伝わり、また堂の背後の板扉はもと北野神社(北野天満宮)にあった多宝塔の遺構とされています。
この他に観音堂に祀られている十一面観音菩薩像は一木作りで平安前期、慈覚大師の作と伝えられ、洛陽三十三所観音霊場の第三十番札所となっていて、通常非公開ですが、正月3が日と春秋の両彼岸中、地蔵盆の8月23・24日に開帳されています。
しかし何といっても一番の見どころは「椿寺」の通称の由来にもなっている書院前庭の「五色八重散椿(ちりつばき)」です。
豊臣秀吉による朝鮮出兵「文禄の役(ぶんろくのえき)」の際に加藤清正が朝鮮蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰って秀吉に献上したもので、その後「北野大茶会」の際に立ち寄った縁で秀吉によって地蔵院に寄進・献木されたといい、初代は残念ながら1983年(昭和58年)に樹齢400年で枯れてしまいましたが、現在は樹齢100年(120年とも)を超える2代目が境内にて見事な花を咲かせています。
3月下旬から4月半ば頃まで大きな花を付けますが、薄桃色や白などの色に咲き分ける五色の八重椿で、また椿は武士の時代には首からぽとりと落ちる様が不吉とされ敬遠されましたが、この椿は花ごと落ちず、花びらが一枚づつ散る「散り椿」であるのが特徴です。
ちなみにすぐ横には枝垂桜もあって、時期によっては桜と椿のコラボレーションが楽しむこともでき、美しい景色が境内を彩ります。
この他に境内には「忠臣蔵」で有名な天野屋利兵衛(あまのやりへえ)のもの伝わる墓や、与謝蕪村(よさぶそん)の師に当たる夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓などがあることでも知られています。
この点、天野屋利兵衛は浅野家に出入りしていた商人で、赤穂浪士の討ち入りに際し、武器を揃えるなど陰で助けた人物ですが、討ち入りの前に役人に捕まり拷問を受けるも断固として口を割らず、このため赤穂浪士は計画通り討ち入ることができたという討ち入りの陰の立役者の一人で、晩年は椿寺に隠棲し、名前を松永土齋と改め剃髪して、義士の冥福を祈ったと伝えられています。