京都市上京区京都御苑内、京都御苑の東南の築地塀に囲まれた約9万平方メートルの敷地にある院御所および庭園。
「仙洞御所」とは退位した天皇、すなわち上皇(太上天皇・院とも)のための御所で、この点「仙洞」とは元々は不老長寿の仙人の住居を意味するものですが、仙人が理想的な人間像かつ俗世を離れて深山に隠遁する所から、転じて譲位した天皇の御所の呼称として使われるようになったといいます。
平安内裏の本宮に対する予備の別宮を「後院(ごいん)」といい、平安初期の第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう 808-50)以降、天皇は譲位すると内裏(だいり)を出て別の御所に移るのが通例となり、後院はその上皇の御所に充てられていたといいますが、平安中期以降は里内裏を院の御所とすることが多くなり、また院政期には上皇の活動も活発化したこともあって各所に仙洞御所が設けられたといいます。
現在の京都御所に隣接する位置に定まったのは江戸初期の1627年(寛永4年)、第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう 1596-1680)が皇位を退き上皇となる際に江戸幕府が造営に着手し、1630年(寛永7年)に完成したのがそのはじまりで、崩御される1680年(延宝8年)まで御所で過ごしたといい、その後、第112代・霊元上皇(れいげんじょうこう 1654-1732)、第114代・中御門上皇(なかみかどじょうこう 1702-37)、第115代・桜町上皇(さくらまちじょうこう 1720-50)・最後の女性天皇として知られる第117代・後桜町上皇(ごさくらまちじょうこう 1740-1813)、そして第119代・光格上皇(こうかくじょうこう 1771-1840)の5人の上皇が同じ場所を御所としたといいます。
幾度か火災と再建が繰り返された後、江戸後期の1854年(安政元年)に発生した火災によって主要な建物は焼失して以降は、仙洞に住むべき上皇が不在だったこともあり再建されず、現在は庭園および醒花亭と又新亭の2つの茶室が残されていて、往時の面影をとどめています。
そして近年、2019年(令和元年)の天皇の代替わりにあたって、第125代・平成天皇および皇后が新上皇・上皇后として居住される皇居の御所を「吹上仙洞御所」、第126代の新天皇・皇后が居住される東宮御所を「赤坂御所」と改称されることとなり、これに合わせて京都の仙洞御所も5月1日付で「京都仙洞御所」と改められています。
一方、仙洞御所の北側に隣接する「大宮御所」の方は、後水尾院の中宮である東福門院(とうふくもんいん 1607-78)(徳川秀忠の娘・徳川和子)の御所として建てられた後、皇太后などの女院御所として使われましたが、仙洞御所と同様に再三の火災で焼失し、現在の建物は幕末の1867年(慶応3年)に第121代・孝明天皇の皇后である英照皇太后(えいしょうこうたいごう 1835-97)の御所として建てられたものです。
そして明治時代に入り皇太后が東京へ移られた後は御常御殿のみを残すとともに、仙洞御所の敷地と庭園を大宮御所に組み入れるなどして皇室の京都における邸宅として整備され、現在は天皇陛下や皇太子殿下の京都滞在時や、国賓が入洛された時などの宿泊施設として利用されています。
この点、京都仙洞御所・大宮御所の管理は宮内庁の京都事務所が行っており、事前予約にて一般参観が可能ですが、空きがあれば当日でも参観が可能となっていて、ガイドの説明を聞きながら建物や庭園を見学をすることができます。
このうち仙洞御所の庭園は江戸初期の1636年(寛永13年)に世界遺産・二条城の二の丸庭園なども手がけた幕府の作事奉行・小堀遠州(こぼりえんしゅう 1579-1647)によって作庭された後、約30年後の1664年(寛文4年)に後水尾上皇が手を加えたものといわれていて、北池と南池の2つの池を中心とした回遊式庭園となっていて庭園を巡りながら、春の桜や藤やツツジ、秋の紅葉など、四季折々の変化に富んだ景色を楽しむことができます。
ちなみに江戸中期の1747年(廷享4年)には桜町上皇が歌人・冷泉為村(れいぜいためむら 1712-74)に命じて「仙洞十景」を選ばせており、当時の仙洞十景は「寿山の早苗」「古池の山吹」「茅葺の時雨」「神祠の夜燈」「滝殿の紅葉」「釣殿の飛螢」「鑑水の夕照」「悠然台の月」「醒花亭の桜」「止々斎の雪」とされていました。