「新京極通」は京都市中京区にある京都市内を通る南北の通りの一つ。
東西は寺町通と河原町通の間に位置し、北は三条通から南は四条通までの南北500mの比較的短い通りで、通り全体が「新京極商店街」となっており、西側に並行する「寺町京極商店街」とともに京都有数の繁華街を形成しています。
この点「京極」とは元々「京の端」という意味で、平安京造営当初は都の両端にそれぞれ「東京極大路」「西京極大路」が南北に走っていました。
このうち「西京極大路」は現在の葛野大路通の西側と推定され、現存しないものの阪急西京極駅や西京極総合運動公園など一帯の地名の由来としてその名残りをとどめています。
他方「東京極大路」の方は現在の「寺町通」にあたり、平安京当時は都の最東の通りで道幅32mの大路でしたが、「応仁の乱」で荒廃しました。
その後この通りが再興されたのは1590年(天正18年)、豊臣秀吉による京都の都市改造計画の際のことで、秀吉は通りの名を「寺町通」と改め、ここに市中に散在していた宗派を超えたおよそ80の寺とその塔頭寺院などを集めて、一大寺町を造営しました。
そしてそれに伴ってその境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物を中心に発展するようになり、また江戸時代には書物や数珠、文庫、筆、薬などを商う商人や、紙や三味線などの職人たちがこの道沿いに集まり住み、現代の商店街の原形が形成されたといいます。
東海道五十三次の最終地点も「寺町三条」となっているように、江戸期の京の寺町は全国にその名を馳せていました。
それから明治維新後の1872年(明治5年)、このことに注目した京都府参事・槇村正直は幕末の1864年(元治元年)の「蛤御門の変」の兵火や明治天皇の東京行幸による事実上の遷都などにより意気消沈していた市民の士気を盛り上げるため、娯楽街をつくることを思い立ちます。
そして三条から四条までの寺町にあった寺院の境内を一部を残して大半を上知没収し、墓地や土塀などの境内を整理してそこに新たな通りを造成し「新京極」と命名しました。
新京極には1877年(明治10年)頃にはすでに芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並ぶようになり、更に明治30年代には東京の浅草仲見世、大阪の千日前とともに日本の三大盛り場として知られるようになりました。
また京都方面の修学旅行のコースに取り入れられるようになったため、修学旅行の中高生の行き来の絶えないことでも知られ、観光客向けの土産物店も多いことから、修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買い物客で賑わう商店街となりました。
そして現在は飲食店やファッションブティックなども混在し、若年層向けの店舗も目立つようになり、ますます活性化が図られています。
以上のように比較的歴史の新しい通りですが、商店街は由緒ある8つの寺社仏閣と隣接しており「新京極8社寺」として寺社めぐりをすることもできます。
北から
「落語の祖」と呼ばれる安楽庵策伝が住職を務めた「誓願寺」
和泉式部ゆかりの「誠心院」
「寅薬師」で親しまれている「西光寺」
蛸薬師通りの名を生んだ蛸薬師堂こと「永福寺」
「さかれんげ」で親しまれている「安養寺」
徳川家康洛上の折の定宿だった「善長寺」
御祭神「菅原道真」の鎮守社である「錦天満宮」
安産のお地蔵さんとして名高い「染殿院」
また1990年(平成2年)にはコミュニティ施設として「ろっくんプラザ」が整備され、数々のイベントが行われています。
この他の注目点としては、新京極の北の起点である三条通からすぐの所は南へ向かって急な下り坂になっており「たらたら坂」と呼ばれています。
これは秀吉が築いた「御土居」の名残りだといわれていますが、隣接する寺町通や河原町通にはこのような急な坂はなく、新京極通にのみ存在しているのに、3つの通りは四条通で互いはほぼ水平に位置していることから「京の不思議」として語られることもある不思議な坂道です。