京都市中京区新京極通六角下ル中筋町、市内有数の繁華街の一つで観光客や修学旅行生などでも賑わう新京極商店街に門前を構える真言宗泉涌寺派の寺院。
正式名は「華獄山東北寺誠心院」で、以前は「誠心院(じょうしんいん)」の呼び名で親しまれていましたが、戦後、先代住職の頃から「せいしんいん」と呼ばれるようになったといいます。
そして初代住職を有名な女流歌人・和泉式部が務めたため、通称「和泉式部寺(いずみしきぶでら)」の名で知られていて、和泉式部にちなみ、知恵授け・恋授けにご利益があるといわれています。
この点、和泉式部(いずみしきぶ)は「中古三十六歌仙」の一人に数えられる平安中期の代表的な女流歌人で、974年(天延2年)~978年(天元元年)頃に誕生。
父・大江雅致(まさむね)が冷泉天皇皇后の昌子内親王に式部丞の職で宮仕えをしていた頃に父に伴い女房として昌子に仕え、また夫の橘道貞(たちばなのみちさだ ?-1016)は和泉守であったことから、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と呼ばれました。
ちなみに道貞との間には娘・小式部内侍(こしきぶのないし 999-1025)が誕生していますが、母譲りの歌才を持つ女流歌人で「大江山(おおえやま) いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」が「小倉百人一首」の第60番に選ばれています。
才色兼備かつ恋多き女性として知られ、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王(ためたかしんのう)、その没後には弟・敦道親王(あつみちしんのう)と結ばれ、どちらも早世してしまいましたが、敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記「和泉式部日記」は日本の女流文学を代表する一つとしてよく知られています。
その後寛弘末年(1008-11)頃から、時の権力者であった藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘で一条天皇の中宮となった上東門院彰子(じょうとうもんいんあきこ 988-1074)に女官として仕え、同じく彰子の周辺にいた「源氏物語」作者としてしられる紫式部(むらさきしきぶ)や、歌人で「栄花物語」正編の作者と伝えられる赤染衛門(あかぞめえもん)などと共に宮廷サロンを築くこととなります。
そして40歳を過ぎた頃、彰子の父・藤原道長の家司・藤原保昌(ふじわらのやすまさ 958-1036)、別名平井保昌(ひらいやすまさ)と再婚し、丹後守となった夫とともにその任国に下り、その後の動静は判然としていない部分も多いようです。
ちなみに京の三大祭の一つである「祇園祭」の山鉾の一つである「保昌山(ほうしょうやま)」は、二人の恋物語がモチーフとなっていることで有名です。
数々の恋愛遍歴による情熱的な恋歌に秀作が多く、「拾遺和歌集」などの代々の勅撰集に247首の和歌が収録されており、「後拾遺和歌集」では最多の歌が選ばれています。そして今に伝わる歌集としては「和泉式部正集」「和泉式部続集」などが知られています。
これら数多くの和歌の中から有名な「小倉百人一首」の第56番に選ばれたのは「後拾遺集」収録の
「あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」
という一首で、自らの死を予感した時に詠んだ「死んでしまう前に愛する人に、今もう一度会いたい」という歌でした。
そして誠心院の寺伝によれば、平安中期の1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)に先立たれた和泉式部は、この世の無常を感じ「女人往生」のすべを求めて訪れた書写山圓教寺の性空(しょうくう)の勧めで、誓願寺の本堂に48日の参籠の末、本尊・阿弥陀如来より女人の身でも「南無阿弥陀仏」の六字の名号を唱れば、身の穢れも消えて往生できると教えを受け、身を清めて尼僧となったといいます。
そしての1027年(万寿4年)、関白・藤原道長が、娘の上東門院彰子(藤原彰子(しょうし))に仕えていた和泉式部のために、法成寺(ほうじょうじ)の境内、東北寺の傍らに小御堂を建立したのがはじまりで、和泉式部は初代住職となって晩年をこの地で過ごし、没後の法名は「誠心院専意法尼」とされました。
当所は御所東の荒神口、現在の京都府立医科大学付近にあったといいますが、鎌倉時代に一条小川上る(京都市上京区)誓願時の南に再建され、この頃に泉涌寺の末寺となります。
天正年間(1573-91)に豊臣秀吉の都市改造計画により、寺町六角下るの現在地に移転し、更に明治維新後の京都を再生させるため京都府知事の命令で新たに「新京極通」が作られると、通りを隔てて境内地が分断され、山門や堂宇を失うなど荒廃。
その後1910年(明治43年)にも火災で類焼し蔵を残してすべて焼失しますが、蘇我部俊雄・向井俊恭をはじめ檀信徒の惜しみない助力によって縮小して再興されて現在に至っています。
現在の本堂は1919年(大正8年)に建立されたもので、1997年(平成9年)には山門も建設され、その後も天正年間に建立された「阿弥陀如来と二十五菩薩石像」が再建されたり、「百親音巡拝」成満を記念して「式部千願観音」「百八観音」「神変大菩薩」などの石像が建立されています。
本堂は小御堂(こみどう)と呼ばれ、堂内には道長が建立した本尊・阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像が安置されており、また境内には式部の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)および式部の歌碑も建てられています。
そして傍らの梅の木は、式部が生前愛木した「軒端(のきば)の梅」にちなみ後に植えられたものだといいます。
その他にも境内には、天正年間に誠心院の移築再建を担当した山口甚介一族の墓石や、江戸時代の有名な俳人である池西言水の墓石と句碑が並んでいます。