京都市中京区東側町、京都有数の繁華街の一つである新京極商店街内の、蛸薬師通の交差する地点にある浄土宗西山深草派の寺院。
「丸竹夷」ではじまる京の通り名に歌われている「姉、三、六角、蛸、錦」の中の「蛸」にあたり、「蛸薬師通」の名を生んだ程、広く庶民の信仰を集めた町堂です。
平安後期の1181年(養和元年)、室町の富者で髪を落として出家した林秀が、比叡山の本尊・薬師如来の夢告により与えられた伝教大師僅刻の石仏の薬師如来を祀るため、二条室町(現在の蛸薬師町付近)に六間四面の堂を作り「永福寺」と名付けたのがはじまりです。
そして本尊の石仏の薬師如来は「蛸薬師」の名で知られています。
これは鎌倉時代の建長年間(1249-56)の初めのこと、永福寺にいた善光という僧が、病気の母親に好物のタコが食べたいと懇願され、思い悩んだ末に僧の戒めに背いてタコを買うため経箱を抱えて買いに出たところ、これを見ていた人に見咎められるという出来事がありました。
進退につまった善光が日頃信仰する薬師如来に一心に祈念し箱を開けたところ、蛸は八本の足を変化させて法華経八軸の経巻に変わっていたのです。
さらに経巻より霊光が四方に放たれ、霊光に照らされた母の病はたちどころに回復したというのです。
この親孝行の話に由来し、以来、病気平癒に霊験あらたかとして京の町の人々から「蛸薬師さん」と呼ばれ親しまれいます。
その後室町時代に入り、1441年(嘉吉元年)に後花園院により勅願寺となり、「応仁の乱」で荒廃するも永正年間(1504-1521)に賢智が中興。
そして1591年(天正19年)の豊臣秀吉による都市改造政策により現在の場所に移転した後、明治維新後の京都府の区画整理により寺域の大部分が没収されて現在の規模となりました。
京都十二薬師霊場第12番札所で、現在もガン封じや心身の病気平癒、諸願成就を祈願し参拝に訪れる人が後を絶ちません。
とりわけタコの形をした木彫りの「なで薬師」は左手で撫でるとすべての病気が治るといわれ人気を集めています。