花街 京都の伝統行事

花街 (Kagai)

「花街(かがい・はなまち)」とは芸妓(げいこ)・舞妓(まいこ)が三味線や舞などの芸で客をもてなすお茶屋(おちゃや)のある街のこと。
これに加えて舞踊を披露する歌舞練場(かぶれんじょう)や芸を磨く稽古場である女紅場(にょこうば)、そして舞妓が共同生活を送る置屋(おきや)に加え宴席の料理を提供する料理屋や仕出し屋などが集まって一つの街が形成されています。

花街は日本の各地にありますが、京都では「祇園甲部」「先斗町」「宮川町」「上七軒」「祇園東」そして「嶋原」の6つの花街が現在残っており、京都花街組合連合会から脱会した嶋原を除く5つを総称して「五花街」と呼んでいます。

この点、花街文化は2014年(平成26年)3月には「京都をつなぐ無形文化遺産」にも選定されており、今や京都の伝統文化を語る上で欠かせない存在となっています。

ちなみに「芸妓」「舞妓」と呼ぶのは京都独特のもので、関東などその他の地域では「芸者」「半玉(はんぎょく)」と呼ばれるそうです。

舞妓と芸妓の違いとは?

京都といえば誰もがイメージする「舞妓」さんですが、舞妓は芸妓になる前の修業段階、いわば見習いです。

まずは置屋(おきや)に共同生活で住み込み、「仕込み」として三味線や舞、茶道などの芸事はもちろん、京言葉や行儀作法にいたるまで徹底的に学んだ後、半年から2年で「店出し」をして「舞妓」としてデビュー。
その後も舞妓として修行を続け通常は5年ほど、20~25歳ぐらいまでに「襟替え」の儀式を通じて芸妓となり、置屋を離れて「自前」として独立していきます。芸妓に定年はなく、ずっと現役を続ける方も珍しくはないのだとか。

両者の見た目の違いは後述のとおりかなりはっきりしています。特に分かりやすいのが帯と履物です。

髪型

舞妓は自分の毛を結い季節の「花かんざし」を付けるのに対し、芸妓は舞の役柄によって髪型を変えられるなどの理由からかつらを着用します。

ちなみに舞妓の髪型にも段階があり、店出しから約2年間は二つに割られた髷(まげ)に赤い鹿の子を差し込み毬のように真ん丸な形に仕上げた「割れしのぶ」と呼ばれる可愛らしい髪型。その後3年目からは布を結んだような形が特徴的な「おふく」と呼ばれるやや落ち着いた髪型になります。
そして舞妓を卒業し芸妓に襟替えする前に2週間だけ結う髪型が「先笄(さっこう)」で、この際にはお歯黒にして過ごすのだといいます。

着物

舞妓は袖は長く色鮮やかな柄が入るのに対し、芸妓は袖は短く色も落ち着いた印象を与える黒などの無地のものを着用します。
また襟(えり)についても決まりがあり、舞妓時代は赤い襟をしていますが、芸妓になる際に「襟替え」と呼ばれる儀式を経て白い襟に変わります。

舞妓は「だらりの帯」と呼ばれる長い帯を垂れ下げて結ぶのに対し、芸妓はお太鼓と呼ばれるノーマルな結び方のため、後ろ姿を見ると両者の違いはかなりはっきりと分かります。
だらりの帯は5m以上もあり、大変重く一人で結べるようなものでないため、男衆(おとこし)と呼ばれる着付け師が着付けを手伝います。

履物

舞妓は「おこぼ」と呼ばれる高さ10cmほどのぽっくり下駄を履くのに対し、芸妓は草履を履きます。

花街の主な行事

始業式(1/7ないし1/9)

黒紋付の正装に縁起物の稲穂のかんざしをつけ、関係者への信念の挨拶などを行います。日にちは祇園甲部・先斗町・宮川町・祇園東は1/7、上七軒は1/9。

「をどり」の上演と「都の賑い」

舞踊に関してはそれぞれが流派を持っており、毎年春には「をどり」の上演(祇園東のみ秋の公演)が各歌舞練場にて開催されます。
更に6月下旬には初夏の風物詩として知られる五花街合同公演の「都の賑い」の公演が南座にて行われます。

節分行事(2/2ないし2/3)

2月の節分の際には奉納舞踊と豆まきに参加します。場所は上七軒は北野天満宮で、祇園甲部・先斗町・宮川町・祇園東の4つは八坂神社の節分会。
夜には仮装することで福を招く「節分お化け」の風習も。

平安神宮例祭(4/16)

上七軒を除く祇園の4つの花街が参加し舞踊を奉納します。

八朔(はっさく)(8/1)

「八朔」とは八月朔日、すなわち旧暦の8月1日を略した言葉で、古くから恩のある人に感謝の気持ちを込めて贈り物をする風習があるそうです。

花街においては旧暦ではなく現在の暦で8月1日に挨拶回りが行われており、黒紋付の正装姿の芸舞妓たちが日頃から芸事で世話になっている師匠やお茶屋に「おめでとうさんどす。これからもよろしゅうおたの申します。」と挨拶する姿は京都の夏の伝統行事として知られ、各メディアでも頻繁に取り上げられています。

祇園祭花傘巡行(7/24)と時代祭(10/22)

京都三大祭の一つである「祇園祭」の7/24の後祭の巡行と並行して行われる「花傘巡行」にも五花街が各年で参加します。

また10月22日に行われる同じく京都三大祭の一つである「時代祭」にも五花街が年交代で参加します。

祇園小唄祭(11/23)

「祇園小唄」は祇園をこよなく愛したという作家・長田幹彦のベストセラー小説「祇園夜話」を映画化した1930年(昭和5年)の「祇園小唄絵日傘」の主題歌として大流行した昭和の名曲ですが、京舞四世・井上八千代が振り付けをした花街を代表する舞踊曲でもあり、舞妓は修行期間にあたる「仕込み」の頃より毎日のように舞う曲なのだとか。

「祇園小唄祭」は2002年(平成14年)より始められたこの曲を顕彰する行事で、毎年勤労感謝の日に開催され、五花街が年交代で参加します。

八坂神社の隣にある円山公園の有名な祇園枝垂桜のそばにある瓢箪池の畔に建てられた歌碑の前で舞妓が歌詞を朗読、献花を行い、この曲に対して感謝の気持ちを捧げます。

南座顔見世総見(12月初旬)

芸事の上達につながるようにと、芸舞妓やお茶屋関係者たちが南座で行われる歌舞伎の「吉例顔見世興行」を観劇する年末の恒例行事の一つです。

事始め(12/13)

花街の一年を締めくくる行事で、日頃からお世話になっているお茶屋や稽古事の師匠など元を訪れ、「おことうさんどす」と1年のお礼と新年の挨拶をする姿は京都の初冬の風物詩にもなっています。

鏡餅を持参し京舞の井上流の家元に挨拶する姿は特に有名で、花街ではこの日より正月向けの準備が始められます。

各花街特有の行事

祇園甲部だけのものとして1/13に師匠宅に集まり新年の挨拶をする「初寄」、11/8の祇園をこよなく愛したという歌人・吉井勇を偲んで祇園白川の川沿いに建つかにかくにの碑の前にて行われる「かにかくに祭」が知られています。

次に上七軒だけのものとしては、2/25の北野天満宮の祭神・菅原道真の命日に行われる「梅花祭」における野点茶会、夏の「上七軒ビアガーデン」と8月上旬の「上七軒盆踊り」、そして12/1に豊臣秀吉の北野大茶会にちなんで北野天満宮で行われる「献茶祭」が有名。

そして嶋原だけのものとしては、3月1日に宝鏡寺で行われる「ひなまつり」における太夫の奉納舞、4月の第2日曜に常照寺で行われる島原の名妓・吉野太夫を供養する「吉野太夫花供養」や11月第2日曜日に嶋原から大阪の名妓となった夕霧太夫の墓がある清凉寺で行われる「夕霧供養・太夫道中」などが知られています。

京都の花街一覧

花街名
(歌舞練場名)
エリア 舞踊公演
(流派)
ポイント
祇園甲部歌舞練場(都をどり) 祇園甲部
(祇園甲部歌舞練場)
祇園・東山 春:都をどり
秋:温習会
(京舞井上流)
京都で最大の花街で、江戸初期に八坂神社の門前で水茶屋を営業したのがはじまり
文学や歌舞伎などの舞台にもなるなど知名度も一番高い
舞踊の流派は京舞井上流で、1872年(明治5年)に天皇が東京に移り活気を失っていた京都を立て直そうと第2代京都府知事・槇村正直が博覧会の余興として上演したのがはじまり
現在の振付担当の五代目井上八千代は人間国宝にも認定されている
紋章は8つの町内にちなんだ8個のつなぎ団子に甲の文字
先斗町歌舞練場(鴨川をどり) 先斗町
(先斗町歌舞練場)
祇園・東山 春:鴨川をどり
秋:水明会
(尾上流)
鴨川の西側、三条から四条の間に位置
名前の由来はポルトガル語で先っぽを意味する「ポント」が由来だと言われている
元々は鴨川の西岸の納涼客を相手に茶店が出されたのがはじまりといい、高瀬川水運の発達に伴い周囲にできた旅館や茶屋から発展した
1872年(明治5年)に鴨川をどり初開催
紋章は鴨川の冬の風物詩である千鳥が鴨川を飛び交う様子を描いたという千鳥紋
宮川町歌舞練場(京おどり) 宮川町
(宮川町歌舞練場)
祇園・東山 春:京おどり
秋:みずゑ會
(若柳流)
鴨川の東側、四条から五条の間に位置
江戸時代に歌舞伎の祖として知られる出雲阿国の公演が行われるなど芝居小屋が立ち並んでいた場所で、出演する役者や観客を相手とする茶屋町として発展してきた歴史を持つ
紋章の三つ輪の起源は芸妓育成機関の女紅場が府立となった際に寺社・町家・花街の3つが合流して学校施設となったことを記念したもの、あるいは宮川の「みや」の語呂合わせなど諸説ある。
上七軒歌舞練場(北野をどり) 上七軒
(上七軒歌舞練場)
北野・西陣 春:北野をどり
秋:寿会
(花柳流)
北野天満宮の東側、上七軒に隣接し、北野天満宮の門前茶屋として栄えてきた
室町時代に火災に見舞われた北野天満宮の再建の際、残った材を用いて7軒の茶店を建てたのがはじまりで、五花街で最も古い歴史を持つ
紋章は太閤・豊臣秀吉が北野大茶会を催した際に御手洗団子を気に入り、団子を商う特権を賜ったことに由来する「五つ団子」
祇園東(祇園をどり) 祇園東
(祇園会館)
祇園・東山 秋:祇園をどり
(藤間流)
元々祇園甲部と同じ八坂神社の門前町として栄えてきたが、1881年(明治14年)に祇園甲部から独立。五花街で唯一秋に「をどり」が上演される
規模は五花街の中でも小さいが、街内に「祇園花月」ができ、現代文化との融合する形で発展
紋章は祇園甲部と同じつなぎ団子だが、輪の中に文字はない
嶋原界隈 嶋原
(島原歌舞練場跡)
京都駅 青柳踊 1589年(天正17年)に豊臣秀吉の公許で二条柳町(現在の柳馬場通)に開かれ、その後1602年(慶長7年)の徳川家康による二条城造営に伴い六条三筋町に移転。1641年に現在地(朱雀野付近)へ移転を命ぜられ、この移転騒動が当時の島原の乱の様子に似ていたことから「嶋原」と呼ばれるようになったともいわれている
他の花街と異なり「太夫(たゆう)」が在籍することで知られる。太夫は江戸初期に誕生した芸妓の最高位で、主に公家などの上流階級を相手にすることから、とりわけ技芸に長け、高い教養を持つ妓女に限られたという
吉野太夫などの名妓を輩出してきたが、立地の悪さなどから次第に衰退し、1976年(昭和51年)に京都花街組合連合会から脱会。
その後1996年(平成8年)には島原貸席お茶屋業組合が解散され、それに伴い歌舞練場も解体。現在は「大門」および置屋兼お茶屋の「輪違屋」、そして揚屋(料亭)の「角屋」が残るのみだが、太夫は限定的ながら現在も活動を続けている

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