京都市北区雲ケ畑出谷町、京都北部の雲ケ畑の志明院への入口となっている岩屋橋そばに鎮座する神社で、旧社格は村社。
社名の通り平安前期の第55代・文徳天皇(もんとくてんのう 826-58)の第1皇子・惟喬親王(これたかしんのう 844-97)を祭神とする神社です。
幼少から聡明であった惟喬親王は、父・文徳天皇の愛情も深く次の皇位を継ぐはずでしたが、850年(嘉祥3年)、文徳天皇と時の権力者である右大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の娘・藤原明子(ふじわらのめいし 829-900)との間に第4皇子・惟仁親王(これひとしんのう 850-81)(後の第56代・清和天皇)が誕生すると、母が紀氏の出身で藤原氏ではく政治的な後ろ盾もなかったことから良房らの圧力により惟仁親王が皇太子に指名されることとなり、第1皇子にもかかわらず皇位継承から外された悲運の皇子・惟喬親王は都を去ることとなります。
その後の隠棲先については洛北・左京区小野など、各地に親王にまつわる伝承や墓塔が数多く伝えられており、伝承によれば惟喬親王は867年(貞観9年)に現在の桟敷ヶ岳辺りに隠棲の後、翌年には雲ケ畑に迎えられて現在の雲ケ畑出張所付近に「高雲の宮(こううんのみや)」を建て、869年(貞観11年)には仏門に帰依し出家し、その際に高雲の宮を寺院に改めたのが現在の「高雲寺」だといいます。
897年(寛平9年)2月20日に54歳で亡くなった後、時期は不明なものの臣下や村人たちが親王の徳を永遠に奉祀するために創建したとされるのが当社であり、現在も雲ケ畑出谷町の氏神として地元住民から厚く信仰されているといいます。
この点、京都や滋賀の山間部かけては、惟喬親王に対する信仰が大変強かったようで、当社以外にも洛内の京都市北区の「玄武神社」や滋賀県東近江市君ヶ畑町の「大皇器地祖神社」などでも惟喬親王が祭神として祀られています。
また江戸後期1787年(天明7年)の京都に関する地誌「拾遺都名所図絵」によれば、親王が寵愛していた雌鳥がこの地で病死したためここに祠を建てたとも伝えられていて、その縁から「雌社」とも呼ばれていたといいます。