惟喬親王の高雲宮址を寺に、「雲ケ畑松上げ」でも有名
臨済宗永源寺派。文徳天皇と右大臣藤原良房の娘明子との間に第四皇子が誕生すると、第一皇子にもかかわらず皇位継承から外された悲運の皇子・惟喬親王が晩年隠棲した高雲の宮を869年に出家の際寺院に。
毎年8月24日夜に火除けと五穀豊穣を祈願する献火行事「雲ケ畑松上げ」を出谷町の福蔵院と共に開催
高雲寺のみどころ (Point in Check)
京都市北区雲ケ畑中畑町、京都北部の雲ケ畑に3つある寺院の一つで、臨済宗永源寺派の寺院。
山号は九龍山(くりゅうざん)、本尊は釈迦牟尼。
平安前期の850年(嘉祥3年)、第55代・文徳天皇(もんとくてんのう 826-58)と右大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の娘・藤原明子(ふじわらのめいし 829-900)との間に第4皇子・惟仁親王(これひとしんのう 850-81)(後の第56代・清和天皇)が誕生。
するとほどなくして惟仁親王が皇太子に指名され、第1皇子にもかかわらず皇位継承から外された悲運の皇子・惟喬親王(これたかしんのう 844-97)は都を去り、郊外の洛北・左京区小野に隠棲した後、山崎、水無瀬など各地を転々とします。
そして晩年は雲ケ畑の地に「高雲の宮(こううんのみや)」を建てて隠棲しますが、869年(貞観11年)、親王は仏門に帰依し出家。
その際に高雲の宮を寺院に改め「高雲寺」としたのがはじまり。
創建当時は真言宗の祈祷所として栄え、祈祷を行う際には村役人をはじめ里人が集まって謡曲の「田村」を奉納したり、寺に柩を近づけないなどの風習があったと伝えられています。
その後、江戸後期の文政年間(1818-30)に近江国永源寺(現在の滋賀県東近江市)の末寺となり、臨済宗に転じました。
寺に伝わる寺宝としては惟高親王が書写したといわれる大般若経「惟高般若(これたかはんにゃ)」六百巻のほか、近郷の人々がこれを拝むとすぐに病が治ったと伝わる「大般若経説相図」や貞観時代(859-77)作の薬師如来像、山越如来像などがあるといいます。
また行事としては当寺のある中畑町および出谷町において、毎年8月24日夜に出谷町の福蔵院と共に開催する愛宕山への献火行事「雲ケ畑松上げ」が有名で、1983年(昭和58年)に「京都市無形民俗文化財」にも登録されています。