京都市左京区岩倉長谷町、叡山岩倉駅の北東、住宅街の広がる岩倉東部の東の端にある神社。旧社格は村社。
社伝によれば、平安初期の857年(天安元年)、第55代・文徳天皇(もんとくてんのう 827-58)の第1皇子・惟喬親王(これたかしんのう 844-97)の請願により八幡大神並びに惟仁親王(これひとしんのう)を歓請し洛北の地に創建したのがはじまり。
父に愛され当初は皇太子になる予定でしたが、母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、その一方で当時一番の有力者であった右大臣・藤原良房の娘・明子との間に第4皇子として惟仁親王、のちの第56代・清和天皇(せいわてんのう 850-81)が誕生したため叶わず、872年(貞観14年)に病を得て出家し、素覚と号し比叡山麓の小野に幽居した後、雲ケ畑に宮を建てて移り住み、最後は更に北にある小野郷大森の地で亡くなった悲運の皇子として知られています。
皇位から艮位の方向に当たることから,皇城鎮護の神として崇敬を集めたといい、現在の社殿は江戸初期の元和年間(1615-24)に社殿が大破した際、これを憂いた江戸2代将軍・徳川秀忠の娘で第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう 1596-1680)の中宮・東福門院(とうふくもんいん 1607-78)が修復・再興したもの。
また長谷村・花園村・中村・三宅村の旧岩倉四か村の広大な地域にわたる氏神として信仰を集めていて、秋の大祭の日には岩倉三宅町の御旅所を含む氏子区域内で神輿渡御が盛大に行われます。