京都市左京区鞍馬本町、京都市北部の鞍馬地域にある叡山電鉄鞍馬線の駅で、出町柳駅から当駅までを結ぶ鞍馬線の起点駅であり終着駅。
この点「鞍馬(くらま)」は京都市左京区にある町名の一つで旧愛宕郡鞍馬村、広義には1889年(明治22年)4月1日の町村制の施行によって鞍馬村、貴船村、二ノ瀬村の3か村が合併し誕生した「鞍馬村」をいい、戦後の1949年(昭和24年)4月1日に岩倉村・八瀬村・大原村・静市野村・花脊村・久多村などとともに京都市左京区に編入されて京都市の一地域となり現在に至っています。
そして中心集落である狭義の「鞍馬村」は京都市の中心部から北西へ10kmほど、京都盆地の北方に連なる北山連峰の一峰をなす「鞍馬山」の山麓の「鞍馬川」沿いに開けた山間の集落で、京都市中心部からは上賀茂から丹波へ通じる鞍馬街道で結ばれており、また北方の鞍馬峠を越えて花背から若狭に向う街道の谷口に位置する集落でもあります。
四方を山に囲まれ、南北に貫く鞍馬川に沿って街道と集落が形成され、平地に乏しいものの杉(スギ)や檜(ヒノキ)といった豊かな森林資源に恵まれていることから、薪炭(しんたん)や木材の生産を生業として里人の生活が営まれてきました。
その集落の中心に聳えるようにして立つ「鞍馬山」の名前の由来については、古くは暗い場所を意味する「暗部山」「闇部山」と書いて「くらぶやま」「くらぶのやま」などと呼ばれ、諸説あるもののこれが「鞍馬(くらま)」に転じたともいわれていて、古くより和歌の歌枕として「くらぶ山」「くらま山」は多くの歌人たちによって詠まれていて、一つの場所に特定できないともいわれているものの、鞍馬山も数多くの「くらぶやま」の一つであって、「暗い」というイメージの共通性によって「暗部(闇部)」の読みが「鞍馬」に転じたとも考えられています。
鞍馬山には現在も標高570mの山の南側の中腹に「鞍馬寺」と「由岐神社」がありますが、古くから霊験あらたかな山として人々の信仰を集め、密教などによる山岳修験の場として栄えた地でした。
このうち「鞍馬寺」は平安京が造営されて間もない796年(延暦15年)、都の北方を守護するため第50代・桓武天皇が藤原伊勢人に命じてこの地に伽藍を創建させ、北方守護の毘沙門天像を安置したのがはじまりといわれ、寛平年間(889-97)には真言宗寺院になりますが、度重なる火災により往時の建物は焼失し、その後も幾度かの火災や戦火で再三焼失するもその都度再建されていて、現在の堂宇は明治期に再建されたものです。
天永年間(1110-12)には天台宗寺院となり、江戸期には宝積院や善門坊など10院9坊を数えたといいますが、明治初期の「廃仏毀釈」による院坊の廃止で大きな打撃を受けた後、1947年(昭和22年)に当時の住職・信楽香雲が鞍馬引教(こうきょう)を開宗し、更にその2年後の1949年(昭和24年)に独立してその総本山となり現在に至っています。
平安時代には「鞍馬」といえばこの鞍馬寺を指す場合が多く、「枕草子」に「鞍馬のつづらをりといふ道」と記述されているほか、「小右記」の寛仁3年3月20日条の記述の中で鞍馬寺の敷地や周辺の寺領が朝廷より確認されている点、また平安時代から桜と紅葉の名所として有名であったようで、「更級日記」にも記述が見られるといいます。
そして中世には長引く戦乱の中で京都と丹波・若狭方面を結ぶ軍事的要衝としても注目された地でもありましたが、京の都から隔たった人里離れた奥深い山里であることから、世を忍んで隠れ住むには格好の場所であり、俊寛の妻子や後白河法皇、西行など都の貴族たちが避難し・隠棲した地でもあったといいます。
しかし何といっても平安末期に源義経(牛若丸)が幼少期をこの地で過ごし、遮那王(しゃなおう)の名で修行に励んだことで知られていて、鞍馬山の僧正ガ谷に住むと伝えられる大天狗「鞍馬天狗」、別名・鞍馬山僧正坊が義経に剣術を教えたとも伝えられていて、境内には老杉に覆われた木の根道などの数多くの義経伝説も残されています。
一方、集落としての鞍馬は平安中期の寛仁年間(1017-20)に愛宕郡内の8か郷が神領として賀茂の上下神社に寄進された際に鞍馬寺の敷地や周辺寺領も寄進区域に含まれていたといいますが、前述の「小右記」にある記述のように寄進地からの除外を認められ、それ以来鞍馬の地は鞍馬寺の寺領とされ、鞍馬の集落は鞍馬街道に沿って鞍馬寺の門前町として発達していきます。
江戸時代をはじめ往時には洛北や丹波地方から京都へと運び込まれる薪や炭の集積地として問屋が数多く並んでたいそう賑わったといい、現在も鞍馬川に沿って南北に続く鞍馬街道の両側には中2階建て、切妻造、平入、格子、桟瓦葺の民家が軒を連ねその美しい景観をとどめています。
また平安後期の歌集にも記述が見られるという木芽の葉を塩漬けにした「木芽漬」は古くから当地の産物として知られていて、現在も「木の芽煮(きのめだき)」という製法で鞍馬寺門前の名物として販売している商家が健在で、中でもそれらのうちの一つ「瀧澤家住宅」の主屋「匠斎庵(しょうさいあん)」は江戸中期1760年(宝暦10年)の建築で、国の重要文化財に指定されています。
そしてこの鞍馬の集落として特徴的なのが鞍馬寺門前の寺院村落として半僧反俗的な性格を有し現在も続いている仲間組織と呼ばれるもので、「七仲間(なななかま)」で形成されています。
惣中の中で中心的立場にあり、京都市無形民俗文化財にも指定されている農作物の豊凶を占う6月20日の「竹伐り会式(たけきりえしき)」の主役を務める「大惣(おおぞう)仲間」のほか、鞍馬寺に宿直して寺務を果たすという「宿直(しゅくじき)仲間」、京都市無形民俗文化財で京都三大火祭・京都三大奇祭としても有名な10月22日の「鞍馬の火祭」において由岐神社の神事に関わるという「名衆(みょうしゅう)仲間」のほか、「僧達(そうだち)仲間」「大夫(たゆう)仲間」「大工衆(だいくしゅう)仲間」、そして「脇(わき)仲間」があり、各仲間は世襲であったことから、鞍馬の伝統行事は今日まで長年にわたって脈々と継承され続けています。
その鞍馬の中心駅である「鞍馬駅」は出町柳駅と当駅とを結ぶ叡山電鉄の鞍馬線の起点・終点の駅で、1927年(昭和2年)に電力会社・京都電燈と京阪電気鉄道の合弁会社として設立された鞍馬電気鉄道が1928年(大正14年)12月1日に山端駅(現在の宝ケ池駅)~市原駅の間で開業された当初はまだ開業されていませんでしたが、寺社参拝を主な目的として駅の設置が行われ、まず1929年(昭和4年)10月20日に市原駅~鞍馬仮駅間が開業された際に、現在の駅の位置から400mほど西側に鞍馬電気鉄道の「鞍馬仮駅」が設置されます。
そして1929年(昭和4年)12月20日に鞍馬仮駅を廃止して現在の「鞍馬駅」が開業されて鞍馬線が全通となり、更に京都電燈の叡山電鉄線、現在の叡山電鉄叡山本線に山端駅から乗り入れが開始されるとともに同線の出町柳駅までの直通運転が開始され、現在の叡山本線・鞍馬線の路線が形づくられます。
1942年(昭和17年)3月には戦時統制によって京都電燈が解散されるのを受け、同社の京都および福井での鉄道事業を分離・引き継ぐために「京福電気鉄道」が設立され、嵐山線・北野線・叡山線の路線継承によって京福電気鉄道の鞍馬線の駅となります。
その後、自動車社会の到来に伴って1976年(昭和51年)3月31日に京都市電の今出川線が全線廃止されて市バスに転換されると、出町柳駅が他の鉄道と接続しない孤立したターミナルとなり、京都市内中心部と直結する路線バスに乗客が流れて叡山本線・鞍馬線の利用客が一気に減少したことで京福および京福を配下に持つ京阪グループの経営を圧迫する事態に。
そこで経営体制の見直しが図られることとなり、1985年(昭和60年)7月に京福の全額出資で叡山電鉄株式会社が設立されると、翌1986年(昭和61年)4月1日には京福が叡山電鉄に叡山線の鉄道事業を譲渡する形で叡山電鉄鞍馬線の駅となりました。
更にその後、叡山電鉄が1991年(平成3年)に株式の60%が京福から京阪に売却され、2002年(平成14年)3月には全株式が京阪に売却されて京阪の100%子会社となったため、現在の叡山電鉄鞍馬線は京阪グループ傘下の駅となっています。
島式(頭端式)ホーム1面2線を有する地上駅で、出入口は分離され、出口のすぐ外側にトイレが設置されていて、また朝晩以外は駅員が配置されている有人駅で、主に朝から夕方までの稼働ではあるものの自動券売機も設置されています。
駅舎は鞍馬寺への参拝を目的に設置された当駅にふさわしく寺院風の木造建築で、1929年(昭和4年)の開業当時に鞍馬寺の門前に建築されたもので、1989年(平成元年)の京阪鴨東線の開業時に改築されるなど多少の改修はあるものの、開業当時の姿をよく残しているといいます。
間口4間半、奥行8間半の木造平屋建てで、重層な二重層の入母屋造・銅板菱葺裳階付の和風屋根は背景の周囲の山並みや豊かな自然環境に見事に溶け込んでおり、また漆喰塗の白壁や内部には木の温もりの感じられる格天井や待合室にある古典的な趣のある照明なども鞍馬寺門前の歴史的景観と見事に調和しており、鞍馬観光の玄関口としてふさわしい建造物として第1回の「近畿の駅百選」にも選出されています。
そしてこの駅舎とともに駅を象徴するのが、鞍馬山のシンボルともいえる「鞍馬天狗」をモチーフに造られた駅前の天狗のオブジェ「大天狗」で、現在は第2代目です。
第1代目の像は1994年(平成6年)に平安遷都1200年を記念して鞍馬の自治会が発泡スチロールを素材に製作したもので、高さは台座を含めて約4m、鼻の長さが約2.3mあったといいます。
元々は鞍馬街道脇に設置されていたものを、2002年(平成14年)に鞍馬駅の駅舎前に移設・展示、長年駅のシンボルとして親しまれてきましたが、長年の間屋外に設置されていた影響で老朽化が著しくなり、また2017年(平成29年)1月には大雪の重みで鼻が折れる事件も発生。
その後修復されたものの、2018年(平成30年)12月1日の「鞍馬線開業90周年事業」の一環でデザインを一新してリニューアルされることが決定し、2019年(令和元年)10月18日に大天狗の2代目が新たにデビュー。京都精華大学マンガ学科キャラクター・デザインコースの学生がデザインを担当し、顔の大きさが縦1.8m、横1.6m、鼻の長さが1.3mあり、素材は主に強化プラスチックFRPが使用されているといいます。
この大天狗のほかにも駅前広場には長年走り続けたデナ21形電車の先頭部と動輪の展示のほかに土産物店などもあり、また「くらま温泉」への送迎バスなども発着していて、更に駅前の鞍馬街道沿いには昔ながらの商店や民家、旅館などが建ち並び、駅周辺は鞍馬寺の門前町の様相を呈しています。