京都市左京区高野、鴨川上流の高野川沿い、詩仙堂や狸谷山不動院など史跡の多いの一乗寺地域の西隣に位置する高野地区の住宅地に鎮座する神社。
賀茂御祖神社(下鴨神社)の境外摂社(第4摂社)で、神紋は下鴨神社と同じ鴨葵。
地元民からは「赤の宮神社」の名で親しまれています。
祭神は天照大神の兄弟神にあたる「波爾安日子神(はにやすひこのかみ)」と「波爾安日女神(はにやすひめのかみ)」で、大地を守護し、万物の生成発展、殖産興をはじめ、方除、火災、災難、疫病、厄除けなど、様々なご利益がある神として信仰されています。
この点、神社名の「はに」は祭神名から、あるいは鎮座地のそばを流れる高野川の古名「埴川(はに)」から来たという説もあり、また埴川の名は上質の粘土(赤土、はに)が産出したからといわれており、いずれにしても神社名は土器に由来しているといえます。
創建年代・鎮座地は不明ですが、平安中期の927年(延長5年)に成立した「延喜式神名帳」に愛宕郡の式内社に比定されている神社としてその名が見られることから、それよりも昔、平安時代以前から神祭用の土器を作る集団により祀られていたと考えられています。
社伝によるとその後、賀茂波爾神社が衰退し、安土桃山から江戸初期にかけて赤ノ宮稲荷が勧請され、稲荷神と迦遇突智神(かぐつちのかみ)を併せて祀り「赤の宮稲荷大明神」と呼ばれていたといいます。
ちなみに今でも社殿横に稲荷社はありますが、これは昭和期に創祀されたものであるとのことです。
そして「赤の宮神社」の通称は、この権九郎稲荷社が勧請された頃に社殿が朱に塗られており人々が「赤の宮」と呼ぶようになったからとも、古来赤土を使って土器類を造る氏族の信仰を集めたことが由来ともいわれています。
現在地に遷されたのは江戸前期の1671年(寛文11年)、あるいは1679年(延宝7年)のことで、高野川東岸はかつてはいったん川が氾濫すると人馬も通ることもできくなることから、住む人もいない荒地でしたが、たまたまこの地を訪れた大坂の商人・豊後屋又兵衛はその有様を見て開墾を思い立ち、後水尾上皇が修学院離宮へ行幸するあたり道路を建設することを知るとその建設を申し出、私財を投じて道路を完成させます。
そしてその褒賞として道路の両側の荒地を与えられると、荒地を開拓して村落が生まれたといいます。
神社が現在地に遷座したのはその後と考えられ、新たに誕生した旧田中村(高野地域)の産土神として、村人たちに信仰されてきたようです。
ちなみに村人は村の始まりを石に刻んで残そうと発起して石碑を建立しており、その石碑は神社の鳥居の右に現存しています。
その後、明治初期の1877年(明治10年)に賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂社となり、現在は京都三大祭の一つである「葵祭」の前に行われる5月12日の「御蔭祭(御生神事)」において「路次祭」が行われ、下鴨神社の祭神に舞楽「還城楽(げんじょうらく)」が奉納される場所として知られています。
その他の注目点としては、舞殿の横にある「波爾井清水」はかつては御供水として下鴨神社の神前に奉られていた湧水で、現在はポンプで汲み上げてはいますが、京の名水の一つとして水を求めに来る参拝者が絶えません。