京都市北区西賀茂北鎮守庵町、「五山の送り火」の「船形」のある舟山の南麓、木々に覆われた閑静な高台の上にある臨済宗南禅寺派の寺院。
正式名は「吉祥山正伝護国禅寺(しょうでんごこくぜんじ)」で、山号は吉祥山(きっしょうざん)、本尊は釈迦如来。
鎌倉時代に東巌慧安(とうがんえあん 1225-77)が兀庵普寧(ごったんふねい 1197-1276)を開山として創建。
1273年(文永10年)に東巌慧安に帰依した聖護院の静成法印により、亀山天皇の勅許を受けて京都烏丸今出川付近に祭殿一宇が建立されたのがはじまりといいます。
兀庵普寧は中国(南宋)からの渡来僧で、1260年(文応元年)に来朝。禅の正当な教義を普及する目的で、高弟の東厳慧安に「正伝」の額を与えたといい、1265年(文永2年)に帰国してしまっていますが、東巖は師の兀庵を勧請開山としています。
一方、東厳慧安は蒙古が襲来した1274年の「文永の役」にあたって八幡の石清水八幡宮に籠り、八幡大菩薩に蒙古降伏と国家安泰を祈願したことにより第90代・亀山上皇(かめやまじょうこう 1249-1305)より「吉祥山正伝護国禅寺」の号を下賜されたことは有名で、この際の「東巌禅師筆 蒙古降伏起請文」は重要文化財に指定されています。
その後、天台宗比叡山延暦寺宗徒の恨みを買ったため堂宇は破却され、東巖は鎌倉の聖海寺に移り、同地で1277年(建治3年)にこの世を去りますが、1282年(弘安5年)に慧安に深く帰依していた賀茂社の社家・森経久が西賀茂の地に荘園を寄進して現在地に再建を果たします。
更に1323年(元亨3年)には後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜り、また足利義満の祈願寺となるなど、以降は皇室や幕府の帰依を受けて堂塔伽藍を完備し洛北の名刹としての威容を誇りますが、「応仁の乱(1467-77)」の兵火に遭い衰退。
その後、豊臣秀吉や徳川家康の援助を受け復興され、江戸時代には塔頭5寺を有していたといいますが、明治維新後は再び荒廃し、第二次世界大戦後に再び復興され現在に至っています。
現在の本堂(方丈)は江戸初期の1653年(承応2年)に南禅寺塔頭・金地院の小方丈を移建したもので、元は伏見城の御成殿の遺構と伝えられ国の重要文化財に指定。
そしてその方丈の広縁(廊下)には、1600年の「関ヶ原の戦い」の直前に伏見城に立籠った徳川方の重鎮・鳥居元忠ら380余名が落城の際に自刃し果てた際にできた血痕の跡が残った床板が天井として利用されており、「血天井」と呼ばれ宝泉院・源光庵・興聖寺・養源院などのものとともに貴重な伏見城の遺構の一つとして知られています。
また方丈の各部屋の襖絵はもとは武士で秀吉の推挙により狩野派の絵師となり、京狩野の始祖ともいわれる狩野山楽(かのうさんらく)一派の筆と推定されていて、1605年(慶長10年)頃に伏見城の本丸御殿を修理した際、徳川家康の発注により画かれたもので、中国杭州(現在の浙江省杭州市)の西湖の山水楼閣図で重要文化財に指定されています。
更に方丈前の庭園は江戸初期、小堀遠州が作庭し、重森三玲により復旧されたと伝わり、一石も岩を用いず白砂と丸く刈り込まれた皐月(サツキ)の植栽のみで構成された枯山水の庭園で、皐月(サツキ)の刈り込みを右から左へ7・5・3と配し、植栽の間を獅子の親子が渡っているように見えることから「獅子の児渡しの庭」と呼ばれています。
そして白壁越しに奥にはるかに比叡山の霊峰を望むことができ、京都における代表的な借景式の庭園として、1985年(昭和60年)6月1日に京都市指定名勝にも指定されました。
この静寂の中で心落ち着くひと時を過ごせる名園は著名人も好んだといい、1979年、京都通で知られた世界的ミュージシャンのデヴィッド・ボウイ(David Bowie 1947-2016)が日本で焼酎のCM撮影を行うことになった際にはこの寺を指定して撮影が行われたといい、庭園を見て涙を浮かべたとも伝えられています。
その他にも春は桜、初夏の皐月(サツキ)、秋の紅葉に冬は雪の日と四季折々の景色が楽しめるほか、中秋の名月の期間は夜間拝観も行っています(要電話確認)。