京都市北区大北山原谷乾町(おおきたやま はらだにいぬいちょう)を中心とする「原谷(はらだに)」地域にある、桜の名所として有名な個人所有の庭園。
この点、「原谷」は衣笠山の北側、金閣寺(鹿苑寺)より北西へ約1.2kmに位置する、四方を山に囲まれた大北山の盆地にある山間の地区。
京都の中心からさほど遠くない立地であるものの、その恐慌と不便さのため歴史の表舞台に登場することはなく、当地に祀られる「原谷弁財天」の縁起によれば、平安末期に「壇ノ浦の戦い」に破れた平家一門が、都に近いこの地に落ち延びて土地を開拓したと記されているものの、次第に住民の数は減少し過疎地帯になったといいます。
明治以降も人の住まない山林状態が続き、昭和初期までに発行された地図に集落の存在を確認することはできませんでしたが、1945年(昭和20年)に太平洋戦争が終結すると在外日本人約600万人が帰国することとなり、耕地拡大による食糧の増産および引揚者の帰農を図るため、11月に緊急開拓事業の実施要領が閣議決定され、要領に従って、京都府が当地を開拓農地として選定。
民有地の買収に難航するも1948年(昭和23年)、洛北開拓農業協同組合(開拓農協)が設立され、満州から引き上げてきた満蒙開拓青少年義勇軍京都第三中隊長の前原関三郎を組合長として、開拓計画が策定され、「原谷開拓団」として19世帯が入植しました。
開拓記念碑「開拓魂」によれば、京都市内にありながら当初は電気も水道も通じておらず、まして開拓に必要となる初期投資さえも得ることができなかった中で、入植者は困難を極めつつも、荒地の開墾や居住地の譲受、そして農地開発のための基盤整備を進めていきました。入植者の子供たちも家畜の飼料をもらうため、毎日のように峠を越えて魚屋などを巡ったといいます。
その後、1950年(昭和25年)5月より、その後の建設事業について、京都府の失業対策事業で行われることが決定。
連日100名を超える作業員に支えられ、道路や水路が次々と設けられ、同年12月には当地内に長年待ち望んだ電気も開通しました。
居住環境に改善がみられることで、1965年(昭和40年)頃から徐々に一般住宅の建設が増加し始め、1971年(昭和46年)に市街化区域に指定され、その2年後に都市計画上の原谷特別工業地区に指定されると、西陣織の職人やマイホームを求める人たちが次々と移り住みました。
更に1976年(昭和51年)に上水道の給水と京都市営バスのマイクロバス(M1系統・原谷線)の運行が開始されると、地域内の既耕地が急速に居住地に変わるなど、地域内各所で宅地開発、住宅建設が顕著に見られるようになったといいます。
そして2008年(平成20年)、ほぼ完全に京都市中心部へのベッドタウンと化したことから、町づくりの役割を終えた開拓農協は解散し、60年に及ぶ開拓史に幕を下ろしました。
「原谷苑」はその原谷の地にある、植木の販売などを行っている山林業の「村岩農園」が所有する個人の庭園です。
村岩農園は明治初期に北山杉の里・中川で山林業を営んでいた高畑家に生まれた高畑岩次郎が、材木商「柴定」を営んでいた村瀬家に婿養子に入った後、先妻をなくしたの機に生家の職に戻り、鷹峯の地にて起業したものです。
その後、昭和初期に花が好きだったという2代目・村瀬常太郎が、鷹峯土天井町(松野醤油店の北側)に梅・桜・紅葉などの樹木を植え農園をはじめますが、加賀・前田公爵の別荘を建てたいとの要望を受けて鷹峯の土地を譲ることとなり、別に花を植える場所を探していたところ、開拓の成果も上がらずに困り果てていた原谷開拓団のとある団員から声がかかり、1957年(昭和32年)に農園の開拓を続行することを条件に原谷乾町の所在地を譲り受けることとなったのでした。
当初は土地を譲り受けた土地はゴミ捨て場で養分もなく、農作物がまったく育たなかったといいます。
そこで様々な種類の樹木を植え込むこととなり、桜、梅、モミジなどさまざまな樹木が試される中、桜の種類は順調に育ったことから、数多くの桜が植えられていき、苦労を重ねて土地を開墾し、昭和30年代より植え始められた桜は今では見事な庭園となっています。
この点、はじめは親戚や友人などの身内だけで花見を行っていただけだったといいますが、人づてに評判が広がっていったことで、桜の時期にのみ一般公開されることに。
そしてそれを機に桜苑は「原谷苑」と命名され、その後、苑内の料理旅館は「青山荘」と名づけられ、現在は例年4月上旬から下旬までの時期に一般公開され、京都の遅咲きの桜の名所として知られるようになりました。
当初は個人所有のためガイドブックにもあまり載せられず、また京都市内でありながら行きにくい場所にあることもあり、地元の人しか知らない「桜の隠れ里」でしたが、近年インターネットの普及もあってその認知度は飛躍的に高まり、観光客はかなり多くなっているといいます。
4,000坪の敷地内に染井吉野(ソメイヨシノ)・源氏枝垂れ、紅枝垂桜など、約20種400本の桜があるといい、紅枝垂桜から薄墨桜、染井吉野、メインの八重紅しだれ桜、黄桜、緑桜、菊桜、郷桜などが順次咲き続けます。
中でもメインとなっているのが紅枝垂桜で、その数は京都で最も多いとされ、春には庭は文字通り花に埋もれさながら「桃源郷」のような光景が目の前に広がり、この世のものと思えないほどの美しさとなります。
入苑には入場料がかかりますが、花の咲き具合によって300円から1500円までの変動制となっており、花が散るとともに閉園となりますが、4代目・村瀬浩司の代の平成元年頃より土場の改良が進められて新しい品種の草木が植えられるようになり、桜の時期にも雪柳、木瓜、つつじ、山吹、しだれ桃といった草木が桜色の景色に花を添えるので必見です。
また桜の一般公開の時期には桜をふんだんにあしらった、見た目も色鮮やかな「紅しだれ弁当」も販売されており、屋内の桟敷席にて美しい桜の景色を見ながら頂くことができ、毎年好評を博しています。
近年は桜以外にも他では手に入りにくい珍しい品種など、様々な苗木の販売や園内の空きスペースを使った京野菜の栽培なども行っており、また紅葉の時期の11月下旬~12月上旬には無料にて一般公開が行われ、苑内にある料理旅館「青山荘」にて湯豆腐付きの原谷苑紅葉御膳や、原谷苑で採れた新鮮有機栽培野菜をふんだんに使ったすき焼き、湯葉・湯豆腐鍋、お抹茶、ぜんざいなどのお食事を、紅葉を見ながら楽しむことができるようになりました。