「松花堂(しょうかどう)」は京都府八幡市にある石清水八幡宮が鎮座する男山の東麓の宿坊・泉坊の中にあり、江戸初期の石清水八幡宮の社僧で文化人としても知られた松花堂昭乗(しょうじょう)が、その晩年の1637年(寛永14年)に建てた草庵の名前。
主に八幡市八幡高坊にあった堂の旧跡と、京都府八幡市八幡女郎花(おみなえし)に移転された現在の坊舎の二箇所を指します。
男山には江戸時代までは石清水八幡宮に所属する宿坊が多数建てられ「男山四十八坊」と呼ばれ栄えましたが、明治初期の「神仏分離令」により宿坊はすべて撤去されることとなります。
これによって1891年(明治24年)、松花堂は旧所在地の南方に移築され、現在は「松花堂庭園・美術館」という文化施設となっており、その管理・運営を財団法人やわた市民文化事業団が行っています。
わが国においては明治維新までは神と仏を併せて祀る「神仏習合」が一般的であり、石清水八幡宮の境内には最盛期には約60近い寺坊があって社僧が住していたといい、松花堂の創建者の松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう 1582-1639)も石清水八幡宮の学僧の一人でした。
昭乗は幼名を辰之助といい、摂津国・堺に生まれた後、兄が興福寺一乗院門跡尊勢に仕えたのに従って奈良に移住。
その後1600年(慶長5年)、17歳の時に石清水八幡宮の男山四十八坊の一つであった「滝本坊(たきのもとぼう)」の阿闍梨・実乗(じつじょう)の下で剃髪して名を「昭乗」と改め、社僧として実乗に仕えて修行するとともに真言密教を修め、後に僧として最高の位である阿闍梨(あじゃり)の位にも就いています。
1627年(寛永4年)に師・実乗が没するとその跡を継いで滝本坊の住職となりますが、1637年(寛永14年)に火災によって坊が焼失すると、住職を退いて兄・元知の子で弟子の乗淳(じょうじゅん)に滝本坊を譲り、自らは男山中腹の「泉坊」の一隅に「松花堂」という小方丈を建ててそこに移り住み、自らも「松花堂昭乗」と名乗って晩年を過ごすこととなり、これが「松花堂」のはじまりとされています。
また昭乗は書画や和歌、茶の湯などにも精通した当代きっての文化人としても知られていた人物で、江戸初期の寛永年間(1624-44)に公家や武士のほか、僧侶や町衆などの間で花開いた芸術文化の形成にも大きな役割を果たしました。
まず書道については、はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、松花堂流(滝本流)といれる独特の書流を確立し、昭乗の生み出した書流は江戸時代200年の間、書の手本として命脈を保ち続けました。
そして近衛信尹(このえのぶただ)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)とともに「寛永の三筆」に数えられる腕前でした。
次に絵画においては、狩野山楽および山雪に大和絵を学び、人物画、花鳥・山水画において当代随一と高い評価を得ています。
更に茶の湯では寛永の文化人たちが数多く集まった茶会において、各界の文化人たちと交友を持ち、近衛信尋や尾張藩祖の徳川義直、狩野山雪、石川丈山(じょうざん)や小堀遠州、林羅山、木下長嘯子(ちょうしょうし)、江月宗玩(こうげつそうがん)、沢庵宗彭(たくあんそうほう)、淀屋个庵など、そうそうたる文人墨客たちが名を連ねており、さながら文化サロンの様相を呈していたといいます。
松花堂は男山山内の表参道から影清塚の分岐点を右に曲がり、石清水社へと向かう途中にあったとされていて、その後1868年(明治元年)の「神仏分離令」にともなう「廃仏毀釈」を受けて男山より松花堂の建物が撤去され、更にその後幾度かの移築を経て1891年(明治24年)に現在地に移築されました。
そして1977年(昭和52年)には八幡市の所有となり、現在は「松花堂庭園・美術館」という文化施設として公開されています。
1957年(昭和32年)には移築先と男山山腹の旧跡がともに「松花堂及びその跡」の名称で国の史跡に、更に2012年(平成24年)1月にはその地を含む当宮境内全域が国の史跡に指定されています。
また「松花堂及び書院庭園」の名称で国の名勝に指定されているほか、松花堂「茶室」が府指定文化財、小早川秀秋が寄進したという松花堂「書院(泉坊書院・玄関)」が府登録文化財に指定されています。
「松花堂庭園・美術館」はその名のとおり、主に草庵「松花堂」や泉坊書院の一部が移築された「庭園」と、昭乗ゆかりの書や絵画などを所蔵する「美術館」で構成。
まず草庵茶室として松花堂庭園の北側の一角にに再現されている「松花堂」は、茅葺・宝形造の屋根で、たったの二畳の広さの中に土間や水屋、仏壇・床などが設けられ、茶室と住居、持仏堂を兼ね備えていたといい、簡素なしつらいながら風雅な趣を備えています。
他方庭園は、松花堂昭乗自らの手による造園といわれている旧泉坊の庭園を、東車塚古墳の上に復元したもので、面積は約2万2千平方メートルで、4つの茶室を有し、内部は内園と外園とに分かれています。
そして「内園」は草庵茶室と泉坊書院を中心に、苔庭や枯山水の築山で囲っており、庭石や灯篭が印象的ですが、写真撮影は禁止されています。
もう一方の「外園」の方は池泉回遊式の日本庭園で、小堀遠州が建てた茶室を再現した茶室や宗旦好みの茶室など「松隠」「梅隠」「竹隠」の松竹梅の3つ茶室を持つ茶の庭園としても知られ、梅隠のつくばいには水琴窟もあります。
また金明孟宗竹や亀甲竹など珍しい40種の竹や、200種の椿のほか、春の梅と桜、夏の新緑、秋の紅葉など、四季を通じて雅趣ある景観を楽しむことができるようになっています。
更に2002年(平成14年)4月にオープンした「松花堂美術館」では、年間を通じて松花堂昭乗の遺品や昭乗ゆかりの人たち、あるいは八幡にまつわる美術品などを展示する館蔵品展や、企画展、特別展などを定期的に開催しているほか、ミュージアムショップ「おみなえし」では商品の豊富な土産物店も営業しています。
ちなみにおなじみの「松花堂弁当」は、松花堂昭乗が愛用したという「田」の字形に仕切られた小物入れの箱から、吉兆の創業者湯木貞一が発案し全国に広めたとされていて、同地は弁当の代名詞として知られる「松花堂弁当」の発祥の地でもあり、小物入れの箱が美術館に展示されているほか、食の交流棟にて営業している「京都吉兆松花堂店」では、庭園を観ながら松花堂弁当を楽しむこともできます。
この他に4つの茶室(松隠・竹隠・梅隠・庭園茶室)、美術館講習室・会議室などは有料で使用できるレンタルスペースとしても提供されています。