京都府八幡市八幡西高坊、石清水八幡宮のある男山の北側、一の鳥居の右から谷川沿いに進んだ先にある曹洞宗の寺院。
山号は糸杉山(しすぎさん)、本尊は薬師如来。
平安初期の860年(貞観2年)、同時期に男山に八幡神を勧請し「石清水八幡宮」を創建した行教(ぎょうきょう 生没年不詳)が、八幡神の1柱でもある第15第・応神天皇(おうじんてんのう 200-310)の位牌所として開創したと伝わる八幡市で一番の古刹。
創建当時は八幡宮の祭神である応神天皇にちなんで「應神寺」でしたが、後に天皇の号をはばかって「神應寺」と改められたといいます。
行教は平安前期の僧で、紀魚弼の子で、大和国・大安寺にて法相・三論・密教を学び、最澄の師である行表や空海の兄・真雅に師事し、859年(貞観元年)に第56代・清和天皇(せいわてんのう 850-81)の即位にあたりその生母・藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)の父である太政大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の命で天王護持のため豊前国(大分県)の宇佐八幡宮に90日間参籠し、平安京近くに遷座する神託を得て山城国男山(八幡市)に社殿を造営、翌860年(貞観2年)に八幡神を勧請して「石清水八幡宮」を創建したことで知られています。
法相・天台・真言と宗旨を変え、室町後期に足利将軍家によって禅宗寺院となり、この時に本尊は不動尊像から釈迦如来に代えられ、それまでの行教作と伝わる不動尊像は奥の院・杉山不動(谷不動)に遷されています。
四宗兼学の寺院でしたが、慶長年間(1596-1615)に尾張国中島郡下津村(現・愛知県小牧市)の曹洞宗寺院の正眼寺の末寺として再興され、現在は曹洞宗の寺院となり、本尊は薬師如来となっています。
中興の祖である12世・弓箴善彊(きゅうしんぜんきょう)は秀吉の正室・北政所の帰依を受け、また尾張中村の出身で豊臣秀吉とは同郷であったといい、秀吉の朱印状によって1589年(天正17年)には寺領120石が給されています。
そして1592年(文禄元年)の朝鮮出兵時にも九州・名護屋へ出陣を見舞う間柄であったといい、出陣にあたって秀吉は三韓征伐を行った神功皇后と武神とされる応神天皇にあやかろうと石清水八幡宮に参拝した際、軍の先鋒にと八幡宮の神官を望んだものの神社側は恐れて命に服さなかったため秀吉は機嫌を損ねますが、その機転により征韓の首途にはまず応神天皇の御寺に参詣すべきことを進言したため秀吉が機嫌を直し、寺領200石を寄進したというエピソードも残っています。
その後江戸時代になっても徳川家康をはじめ歴代の徳川将軍から寺領を安堵され、八幡宮の領内や近隣に末寺数か寺を組織していたといい、また19世・廓翁鉤然(かくおうこうねん)の時代には5代将軍・徳川綱吉とその御台所より袈裟を賜り、各地を勧進行脚して寺観を整えるとともに1700年(元禄13年)には多くの雲水が毎年修行する「常法幢地(じょうほうどうち)」の寺格を得て、洛南有数の禅苑となりました。
このような経緯から当寺は豊臣家の太閤桐と徳川家の三つ葉葵の、豊臣・徳川両家の家紋を寺紋として使用することが認められているといいます。
江戸時代以前は「石清水八幡宮寺」と称されていたように、当初から神仏習合の色合いが強かった男山において、石清水八幡宮の神宮寺として八幡宮とともに官民問わず崇敬を集めてきましたが、明治維新後の「神仏分離令」に伴って、男山にあった仏教施設や僧房はことごとく破却され仏像や仏具なども散逸し姿を消します。
しかし八幡宮の現在の鳩茶屋の前あたりにあった開山堂に祀られていた「行教律師坐像」は仏像ではない証しとして烏帽子を被らせて還俗式を行い紀中津御祖神と改称し、また開山堂も「継弓社」と名を改めることで廃仏毀釈の難を逃れたといいますが、更に管理が厳しくなり継弓社が廃社となったことから1873年(明治6年)に墓所のある当寺に移され、現在は国の重要文化財に指定されています。
その他にも寺宝として、豊臣家とのつながりから豊臣秀吉の衣冠束帯姿の像が安置されているほか、徳川家とのつながりから伏見城の遺構とされる血天井のある「書院」が伝わっていて、江戸初期の建造で八幡市域で現存最古の書院建築とされています。
そして書院の「竹に虎、御所車」などの襖絵・杉戸絵は狩野山雪の筆によるもので、八幡市指定文化財となっています。
また本堂西側の小高い墓地には開基である行教の墓や淀藩の永井家、「淀屋橋」の名前の由来にもなっている江戸時代の大坂の豪商「淀屋」の5代目・淀屋辰五郎(よどやたつごろう1684?-1717)や、飛行神社に祀られている航空機研究者・二宮忠八などの墓があることでも知られています。
その他にも境内にはイロハモミジの大木が群生していて、秋は参道の石段が見事な紅葉で彩られ、見頃の時期に合わせて「紅葉まつり」も開催され、行教律師座像や豊臣秀吉像・秀吉公御朱印などの寺宝が展示されるほか、絵画・写真、手作り作品の展示・即売などの多彩なイベントも催されます。
神応寺の「奥の院」とされる「杉山谷不動尊」は「杉山谷」と呼ばれる深い谷の底近く、石清水八幡宮の頓宮の西側の坂道を登った先にあり、参道の途中では石清水八幡宮の本殿へと上っていくケーブルカーの鉄橋を頭上に見ることができます。
男山と鳩ヶ峰の谷筋にあり不動明王を祀ることから「谷不動」の別名で知られていて、八幡神を男山に勧請した行教がその鎮守として建立したとも伝わっています。
そして本堂(不動堂)の不動明王は平安初期に弘法大師空海が危害を加える悪鬼を法力によって封じ、一刀三礼により自ら不動明王を刻んで安置したもので「厄除け不動」として篤く信仰されています。
悪魔降伏のために憤怒の形相をし、両脇には善悪を掌るコンガラと制咤迦(せいたか)の童子を従えており、60年に一度しか公開されないという秘仏です。
また不動堂の横の谷川には修行者が滝行を行う「霊泉瀧(ひきめの瀧)」が流れていて、全体としてとても静かな雰囲気が漂っています。