京都府宇治市宇治蓮華、平等院の南門から西へ100m、または観光客で賑わう宇治橋西詰の五差路のうち大鳥居の聳え立つあがた通を南へ進んだ先にある神社。
神社の創建年代やその経緯などについては不詳ですが、「県(あがた)」とは「大化の改新」以前に諸国にあった大和朝廷の地方組織のことで、朝廷は主に国造(くにのみやつこ)に地方を支配させていましたが、それとは別に朝廷が直接支配していた直轄地「県(あがた)」があり、その責任者が県主(あがたぬし)でした。当社は古代より地域の守護神として創建されたと考えられています。
平等院の建立以前では、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」に右大将道綱の母が宇治に来た時、あがたの院に詣でたことが記されています。
平安後期の1052年(永承7年)に関白・藤原頼道の「平等院」建立にあたって平等院の鬼門に当たることから、その鎮守社となったといわれ、その後は平等院が三井寺(園城寺)門主の開眼にかかり、天台宗に属していることから滋賀県大津市の三井寺円満院の管理下にありましたが、明治維新後の「神仏分離令」によりその管理を離れ、現在に至っています。
祭神の「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」は古事記の「天孫降臨」の話の中に登場する絶世の美女として知られる女神であり、山の神である大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、太陽神である天照大神の孫(天孫)にあたる瓊瓊杵尊(邇邇芸命(ににぎのみこと))の妃神でもあります。
瓊瓊杵尊は天照大神に命ぜられて国を治めるため日向の高千穂の峰に天から降臨した際、吾田の笠沙の岬で出会った木花開耶姫命を見初めてその妃としますが、姫命が一夜にして子供を授かったため(一夜孕み)、自分の子ではなく国津神(くにつかみ)の子ではと疑います。
すると姫命は「お腹の子が天津神である瓊瓊杵尊の子なら何があっても無事に産めるはず」と出口のない産室を作ってその中に籠り火をつけますが、姫命は燃え盛る炎の中で3柱の神を無事に出産し(火中出産)、身の潔白を証明しました。
ちなみにこの時生まれた3柱の神は火がさかんに燃えて照り輝いている時に生まれた火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)、炎が燃え盛る時に生まれた火須勢理命(ほすせりのみこと)、そして炎が鎮まった時に生まれた火遠理命(ほおりのみこと)(山幸彦)は初代天皇である神武天皇の祖父にあたる神様です。
このような由緒から安産の守り神、家運隆盛、結婚や良縁の神様として信仰されています。
また火中出産で知られる木花開耶姫はその力で富士山の噴火を鎮めているという「富士山」の神霊でもあり、富士山を御神体とした富士信仰(浅間信仰)を元に創建され、全国で1300あまりに及ぶ浅間神社の総本宮である静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)の主祭神・浅間大神(あさまのおおかみ)としても知られているほか、「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ富士山の頂上から桜の花びらを蒔いて日本国中に桜の木を広めたという伝説もあり「桜の神」ともされています。
社殿は数度の改築を経た後、現在のものは1936年(昭和11年)に新たに造営されたもの。
その他の見どころとしては昔「縣の森」と呼ばれる巨木の生い茂る地域だった頃を思わせるように境内の中央に立つ大きな椋(むく)の木の御神木は樹齢500年以上で、本殿横にある大きなイチョウの木とともに「宇治市名木百選」にも選ばれているほか、本殿左手には祭神の名前のつけられた「木の花ざくら」と呼ばれる桜の木があり、春にはその名にふさわしい美しい花を咲かせます。
また正面鳥居から境内に入ってすぐ左手にある「県井戸(あがたのいど)」は、「後撰集」にみられる橘公平女(たちばなのこうけいのおんな)の歌「都人 きてもをらなむ 蛙なく あがたのゐどの 山吹の花」のように古くから歌枕として和歌の中に登場するなど名水として知られ、皇族の女性が出産する際の産湯などにこの水が使われたほか、神社における「献茶式」の神事、更に江戸時代になると安産祈願や下半身の病気に効くとの霊験から井戸の水を汲みに多くの参拝客がやって来たといいます。
行事としては毎年6月5日の「県祭(あがたまつり)」は、江戸時代より続く伝統行事で宇治を代表する祭として有名。
5日の深夜から6日の未明にかけ、沿道の灯りを落として暗闇の中で「梵天渡御」と呼ばれる行事が行われることから、別名「暗夜の奇祭」呼ばれており、また22時頃までは宇治橋通り商店街やあがた通り、本町通りの三角形で囲まれたエリアを中心に500とも700ともいわれる露店が並び10万とも12万人ともいわれる参拝者が訪れ、大いに賑わいます。
祭のクライマックスである「梵天渡御(ぼんてんとぎょ)」は、6日午前0時に神社本殿前にて灯火を落とした暗闇の中で神霊を移した後、直径約1.5mの球状の御幣を付けた「梵天(ぼんてん)」を載せた「梵天神輿」を担いで練り歩きます。
この点「梵天」とはお祓いの時などに使われる白い紙を短冊状に切った御幣を青竹に挟み込んで約1mほどの球形にしたもので、重さは50kgを超えるといい、これを依り代として主祭神である木花開耶姫命の御神体を移して渡御を行います。
「梵天神輿」は南鳥居を出て南西角の交差点(大幣殿跡前)までくると、法被姿の男たちの手により前後左右に大きく傾ける「横ぶり」と「縦ぶり」、猛スピードで何回も回転させる「ぶん回し」、梵天を頭上高く差し上げて回す「天振り回し」などの豪快かつ勇壮な姿が披露され、多くの見物客の歓声と熱気に包まれます。
また梵天渡御の後の6月8日には災難や疫病が土地に入らないように祈る「大幣神事(たいへいしんじ)」が行われます。
あがた通り、宇治橋通り商店街、本町通りの三角形で囲まれた区域を、途中御祓いの儀式をしながら練り歩いて3つの黄色の傘に松の枝を挿した長さ約6mもあるという「大幣」で疫神を集め、神社まで戻ると最後は大幣を幣差(へいさし)と呼ばれる男衆が引きずりながらあがた通りを駆け抜けて宇治橋の上から宇治川に投げ捨て、五穀豊穣祈願や厄払いを祈願します。
宇治に夏の到来を告げる行事として知られ、また持ち物や馬馳せの行事などは中世期の形式がほぼそのまま残されているといい、2012年(平成24年)には宇治市の登録無形民俗文化財の第1号にも指定されている伝統行事です。