京都市山科区西野山欠ノ上町、山科の西南部、地下鉄東野駅と椥辻駅の西方に鎮座する神社。
祭神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、神大市比売大神(かむおおいちひめのおおかみ)、大土之御祖大神(おおつちのみおやのおおかみ)の3柱。
このうち宇迦之御魂大神の母神である神大市比売大神が併せ祀られていることから、伏見稲荷大社の本宮・奥宮としての信仰も篤いといいます。
社伝によれば、平安中期の903年(延喜3年)に第60台・醍醐天皇の勅命により創建。
醍醐天皇が山階(現在の山科)に住む外曽祖父・宮道弥益(みやじのいやます)の元へ行幸の途中、花山あたりで美しい景色に思わず御車を止めしばらく眺めたといい、その夜に夢に老人が現れて自分を花山に祀れば永く国民と国土を護ると告げ、名を尋ねると「宇迦之御魂」と言って消えたといいます。
そして夢から覚めた天皇は御神託の通りに勅命を下され、上中下の社殿を造営させて三柱の大神を勧請したと伝えられています。
古くは「西山稲荷」と呼ばれたといいますが、その後、第65代・花山天皇が篤く崇敬したことから「花山稲荷」と呼ばれるようになり、後に花山院家(清華家)にも勧請されて宮中でも祀られたといい、現在も京都御苑の花山院家の邸宅跡にある宗像神社の境内には境内社として花山稲荷神社の名前が残っています。
988年(永延2年)に第66台・一条天皇、1174年(承安4年)には平清盛の長男・平重盛が社殿を再建しており、その後1701年(元禄14年)に大石内蔵助の義兄である進藤源四郎の寄進により現在の本殿が造営されています。
また拝殿の右側にある「稲荷塚」と呼ばれる古墳は、平安後期に祇園祭の長刀鉾の鉾を作ったことでも知られる名工・三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が稲荷大神の神徳により名刀「小狐丸(こぎつねまる)」を鍛えたところとも伝えられていて、毎年11月の第2日曜日に開催される「火焚祭(ひたきさい)」はこの故事にちなんで火焚串を独特の鞴(ふいご)の形に組むことから「ふいご祭」とも呼ばれ、火中に投げ入れたみかんを食べたり、皮を煎じて飲めば、年中風邪を引かないといわれている。
その後、江戸中期の元禄年間には稲荷講が設立されて洛中の人々が数多く参拝に訪れて大いに賑わったと伝えられ、また同時代には山科の当社近くに隠棲していた大石良雄(内蔵助)(おおいしよしお(くらのすけ))も当社を崇敬し、大願成就を祈願したといわれることから、大石内蔵助必勝祈願の社として知られており、境内には大石良雄が献納した鳥居や断食石、血判石などが伝えられています。
明治維新後は勅命により村社となり、戦後一時廃れるもののその後再興され、2003年(平成15年)には御鎮座1100年を祝う式年大祭が行われています。
境内の参道には明治100年を祈念して植えられたという桜の花が春には参道から境内にかけて咲き誇り、山科を代表する桜の名所の一つとなっています。
桜の種類は大半が染井吉野(ソメイヨシノ)で、その他に山桜、里桜、枝垂桜、八重紅枝垂桜があるといいますが、このうち枝垂桜は、御所にたくさん落ちていた種を拾った西野山のおゆきという人物が実生させて当社に寄進したことから「おゆき桜」と呼ばれ親しまれています。
行事としては前述の「火焚祭」のほか、京都では吉祥院天満宮と西院春日神社ぐらいでしかお目にかかれない珍しい神事である釜を鳴らして一年を占う「鳴釜神事」の行われる「初午祭」が有名です。
また近年は刀を擬人化したゲーム「刀剣乱舞」の影響もあり参拝者が増え、全国から多くの女性が訪れるといい、境内にはゲームの中に登場する神社に縁のある名刀・小狐丸にちなんだキャラクター「小狐丸」の描かれた大きなパネルが置かれ、記念写真を撮る人も多いといいます。