京都市伏見区淀本町、宇治川と桂川の合流付近の中州に位置し、京都競馬場があることで知られる京阪本線「淀」駅の西南約400m、淀城趾の北側の一画に整備された公園。
淀の地は古代には淀の港を意味する「与渡津」と呼ばれ、諸国からの貢納物や西日本から都に運ばれる海産物や塩などを陸揚げする物資の集積地であった場所で、また京都市街地より、大阪寄り南12kmの所で、桂川、宇治川、木津川が合流し淀川となる三川合流の地付近に位置しており、昔から大坂・奈良方面から京都に入る要衝であったことから、防衛拠点として度々城が築かれています。
この点、淀城は歴史上3つの城が存在しています。
第1期は
室町時代から戦国時代にかけ守護大名・畠山政長や室町幕府の管領・細川政元によって最初に築城されたもの。
築城年代は定かではありませんが、室町中期の1478年(文明10年)の記録に「応仁の乱」で西軍の畠山義就と対立したことで知られる守護大名・畠山政長(はたけやままさなが 1442-93)の家臣・神保与三左衛門尉が淀へ入部したとあり、同年政長は山城国の守護に就任していることから、この頃には畠山氏によって築かれたと考えられています。
その後1493年(明応2年)に細川氏が山城国を掌握すると、摂津と河内の抑えの城として守護代クラスの居城となりますが、その後は下剋上の時代の中で1504年(永正元年)に細川家の被官であった薬師寺元一が主家に反抗して淀城に立て籠もるなど、幾多の攻防が繰り返される場所となります。
そして1573年(天正元年)2月、天下統一を目指す織田信長に反旗を翻した室町第15代将軍・足利義昭が二条城で挙兵した際には、義昭の要請に応じて三好三人衆の1人・岩成友通が淀古城に立て籠もって織田軍の木下秀吉(豊臣秀吉)や細川藤孝らと交戦し、最終的には織田方に攻め滅ぼされています。
また1582年(天正10年)6月2日の「本能寺の変」の後に明智光秀が淀古城を改修したとの記録があり、秀吉と光秀が激突した「山崎の戦い」でも利用されたといいます。
第2期は
豊臣秀吉の天下となった安土桃山時代の1589年(天正17年)3月、秀吉が側室・茶々の産所として、弟・豊臣秀長に命じて淀城を大修築し、茶々に与えたもので、このため茶々は以後「淀殿」と呼ばれることになったことは有名です。
同年この城において茶々は鶴松を産みますが、その鶴松は1591年(天正19年)にわずか3歳で夭逝。
鶴松の亡き後は秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ 1568-95)が養子となりいったんは後継指名されますが、その直後に茶々が新たに拾(のちの豊臣秀頼)を産んだことで事態は急変。
1595年(文禄4年)に秀次は謀反の疑いを掛けられて自刃に追い込まれますが、この際に秀次の家老で淀城の城主であった木村重茲(きむらしげこれ ?-1595)も連座となり、切腹を命じられています。
一方淀城は1594年(文禄3年)に伏見城の築城に伴って天守や櫓などが取り壊され、翌年には廃城とされています。
ちなみにこの淀殿ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、ここから北方へ約500mの納所にあったと推定されていて、江戸時代のものと区別するため「淀古城」と呼ばれていています。
跡地にある妙教寺という寺院の境内にある淀古城の石碑が往時を偲ばせます。
第3期は
江戸初期の1623年(元和9年)に着工し、2年後の1625年(寛永2年)に完成したもの。
第2代将軍・徳川秀忠は1619年(元和9年)の伏見城の廃城に伴って水陸の要衝の地である淀に新たな城を築くことを命じ、遠江国掛川より松平定綱が3万5千石で淀に転封となり淀藩初代藩主となります。
そして以降は「一国一城令」の中で山城国唯一の大名家の居城として明治に至ることとなりました。
江戸時代の淀城は本丸と二の丸を内堀で囲み、周囲に三の丸・西の丸・東曲輪を配して淀川・宇治川を外堀とするなど、周囲に二重三重の濠をめぐらした大城郭で、「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」の歌で名高い水車は直径8mもあったといい、城の西南と北の2ヶ所に取り付けられていたといいます。
築城に際しては廃城となった伏見城の資材が転用され、また本丸には四隅に櫓を従えた五層の天守が建っていたといわれていますが、これについては二条城に伏見城の天守が移築されたのを受けて二条城の天守が移築されたと伝えられています。
また三川合流地の中州を干拓して「淀三町」と呼ばれる城下町が形成され、城下町を貫通する形で京街道(大坂街道)も設定され、翌1626年(寛永3年)には徳川秀忠・家光父子が上洛の途中にこの城を宿所としたと伝わっています。
その後1633年(寛永10年)に松平氏の国替えにより永井尚政が城主となると、藩主は永井家、石川家、戸田家、松平家と転々としますが、1723年(享保8年)5月に春日局の子孫である稲葉正知(いなば まさとも 1685-1729)が下総佐倉より10万石で転封となり第10代藩主となると、以降幕末までの数百年間は稲葉氏が治めることとなります。
この点、稲葉氏といえば斎藤道三の西美濃三人衆の筆頭として活躍し、その後は織田信長・豊臣秀吉にも仕えた戦国武将・稲葉一鉄(良通)が有名ですが、その一鉄(良通)を祖父(一鉄の娘が母)に持ち、明智光秀の重臣・斎藤利三を父に持つのが、徳川家光の乳母を務め徳川幕府を影で支えたことで知られる春日局で、稲葉正知はその春日局の玄孫(やしゃご)にあたる人物です。
春日局の夫で下野国真岡藩初代藩主・稲葉正成
春日局の息子で下野国真岡藩2代藩主のち相模国小田原藩初代藩主・稲葉正勝
正勝の次男(春日局の孫)で相模小田原藩第2代藩主・稲葉正則
正則の長男(春日局のひ孫)で相模小田原藩3代藩主のち越後高田藩主のち下総佐倉藩初代藩主・稲葉正往
正往の次男(春日局の玄孫)で下総佐倉藩2代藩主のち山城淀藩の初代藩主・稲葉正知
幕末の「鳥羽・伏見の戦い」の際には、藩主・稲葉正邦は現職の老中を務め江戸に滞在しており、鳥羽・伏見の戦いに敗北した幕府軍は淀城に籠もろうとしますが、城主不在の淀城は幕府軍の入城を拒み、その結果淀での戦いは新政府軍の圧勝という結果に終わります。
現職の老中を出し譜代の名門にありながら新政府軍に寝返ったという事実は幕府にとっては政治的に大打撃であり、以降幕府の敗北を決定づけるものとなりました。
明治時代に入ると「廃藩置県」によって淀城は廃城が決定し、建物は取り壊され、周囲は早々に開発され、現在は天守台の石垣と本丸の石垣の一部、内濠の一部が残り往時の名残をとどめるのみとなっています。
そして城郭に伴う再建造物などもありませんが、1968年(昭和43年)に市民の憩いの場として本丸や石垣を利用し整備された「淀城跡公園」が開園し、本丸跡には「淀城址」の石碑が建てられています。
この他に城跡には公園の他にも稲葉神社と與杼神社の2つの神社が鎮座しています。
「稲葉神社」は1885年(明治18年)に旧淀藩士により本丸に藩祖・稲葉(越智)正成を祀る神社として建立されました。
「與杼神社」は淀・納所・水垂・大下津の産土神として信仰を集めていましたが、1900年(明治33年)の桂川河川敷の拡幅工事に伴い、1902年(明治35年)6月21日に淀城址内に遷座しています。
また3~4月は桜、夏は堀に蓮の花が咲き、いずれも隠れた名所となっています。
現在、淀城跡公園の再整備計画が進行中で、拡張部分17000平方mを追加し、本丸には実物大の櫓建物や、駐輪場のため埋め立てられていた内堀を復元したり、また淀城のシンボルともなっていた水車も復元される計画となっているとのことです。