京都市伏見区淀本町、京都競馬場があることで知られる京阪本線「淀」駅の西南約400m、淀城趾の北側の一画、淀城跡公園の南東に鎮座する神社。「与杼神社」とも表記
淀・納所・水垂・大下津の産土神として鎮座し、古くは、「淀姫社(よどひめ)」または「水垂社(みずたれ)」とも呼ばれていたといいます。
祭神は三柱で向かって
中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト) 神功皇后の姉
右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ・たかみおすびのかみ)
左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)
「水垂社縁起」によると、創建は平安中期の応和年間(961-63)で、僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座する一之宮で式内社の與止日女神社(よどひめじんじゃ)(河上神社)より「淀大明神(河上神)」を勧請したのがはじまり。
この点、千観は愛宕念仏寺などを再興したことで知られる人物で、内供とは天皇の傍にあって仏教儀礼に奉仕した高僧のことです。
もっとも「三代実録」によれば、859年(貞観元年)に従五位下の神位を賜ったことが記され、また平安中期の927年(延歴5年)に成立した「延喜式神名帳」第9巻の「山城国乙訓郡」中に與杼神社の名があることから、応和年間よりも前に鎮座していたと考えられています。
元々は現在地より西の桂川対岸(右岸)の旧乙訓郡水垂村の大荒木の森、現在の伏見区淀大下津町、宮前橋の下流付近にあったといい、桂川水運の守護神として人々より崇敬を集めており、古くからこの地に住んでいた大与等(オオヨド)氏の祖神を祀ったものとも考えられています。
しかし1900年(明治33年)に桂川河川敷の拡幅・改修工事にあたって、淀城址内の現在地へ遷座されることとなり、本殿以下の建物は、5月24日付の神社移転許可により、翌1901年(明治34年)7月に移転工事に着工し、翌1902年(明治35年)6月21日に移転が完了。
現在は淀・納所・水重・大下津の産土神として信仰されており、一方旧地は桂川右岸2線堤防の北側に小祠を残すのみで、当社の御旅所となっています。
4437平方メートルあるという境内には本殿・拝殿の他に、日大臣社(ひだいじんしゃ)、長姫社(ながひめしゃ)、川上社、豊丸社の各社殿と、神輿3基を格納してある神輿庫(みこしぐら)、手水舎及び社務所などの各建造物が建立されています。
このうち本殿・拝殿は江戸初期の1607年(慶長12年)頃の建立で、豊臣秀頼の命によって再建されたと伝わり、桃山時代の建築様式をよく保存していたことから1971年(昭和46年)6月22日に国の重要文化財に指定されました(本殿内の木造狛犬一対を含む)。
しかし残念なことに本殿の方は1975年(昭和50年)8月5日16時30分頃、子供の花火遊びにより焼失。
その後、本殿は5年後の1980年(昭和55年)3月23日に氏子・崇敬者各位の助力もあって再建されていますが、現在は拝殿のみが周辺地域でただ一つの重要文化財建造物として往時の威容をとどめています。
また社務所は2000年(平成12年)9月、神社がこの地に遷座した明治33年(1900年)より100年を記念して新築されたもの。
この他のものとしては大鳥居の代わりを務めているようにも見える2本の銀杏の大木の間に渡された大注連縄が印象的です。
また同地は淀城跡と共に風致地区にも指定されており、淀城跡公園に取り込まれた形であるものの、緑あふれる環境で近隣住民の憩いの場ともなっています。
行事としては毎年秋の10月下~11月上に行われる例祭「秋季大祭(淀祭)」が知られており、3基の御輿による御輿渡御が行われて多くの人々で賑わいます。