京都市伏見区葭島(よしじま)矢倉町、伏見の南側、伏見の街を南北に流れる濠川が宇治川と合流する地点にほど近い場所にある京阪本線・宇治線の駅。駅スタンプは菜の花と酒蔵の眺望で知られる松本酒造。
この点、駅名の由来である「中書島」は豊臣秀吉に仕え「賤ヶ岳の七本槍」の一人として武功を上げ豊臣水軍の中心人物として秀吉の天下統一に貢献し淡路国洲本藩主となった後、「関ヶ原の戦い」では東軍へ内応し徳川方の勝利を決定づけ、戦後は徳川家康に仕え伊予国大洲藩の初代藩主となった脇坂安治(わきざかやすはる 1554-1626)が、文禄年間に中務少輔(なかつかさしょうゆう)に任官していた頃に中務少輔の唐名が「中書(ちゅうじょう)」であったことから「中書様」と呼ばれ、その「中書様」が宇治川分流に囲まれた島に屋敷を建てて住んでいたことにしなみ、中書様住む屋敷の島ということで「中書島」と呼ばれるようになったと伝えられています。
現在も正式な地名にはなってはいないものの、駅のある葭島矢倉町のほか北浜町・西浜町・東柳町などを含めた一帯が「中書島」と呼ばれているといい、一帯は橋本と同様に戦前まで遊廓が置かれていたといいますが、現在は落ち着いた雰囲気の住宅地となっており、遊廓だった一部の建物が民家としてその名残りを留めるのみとなっています。
1910年(明治43年)4月15日の京阪電気鉄道(京阪)の京阪本線の開業に合わせて設置されたのがはじまりで、その後当初は北側にあり伏見の中心街にある伏見桃山駅となるはずだった宇治線の接続駅となることが決まり、1913年(大正2年)6月1日に宇治線が開業されると駅を移設し京阪本線と宇治線の乗換駅とされました。
そして1943年(昭和18年)10月に戦時中の企業統合政策によって、京阪電気鉄道が阪神急行電鉄(現在の阪急)と合併するといったんは阪急の駅となりましたが、戦後の1949年(昭和24年)12月に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が再び分離独立すると、再び京阪の駅となり現在に至っています。
京阪本線と宇治線の接続駅であり、相対式ホームの間に島式ホームを挟んだ形の3面4線の地上駅で、各ホームは跨線橋と地下道で連絡し、1番ホーム上にコンビニアンスリー、2・3番ホームにうどん屋・麺座といった店舗も設置されていて、また出入口は東西に走る線路を挟んで南北に2か所、いずれもが西側に駅舎を構える形で設置されています。
このうち北出口は淀川の水運を利用し京都と大阪を結ぶ水上交通の要所として栄えた伏見の港町の風情を残し、京都市自然100選にも選ばれた柳並木が印象的な宇治川派流・濠川の流れを中心に、淀川水運の輸送船として活躍していたものを観光遊覧船として復活させた十石舟・三十石船の乗船場や、幕末に坂本龍馬が定宿とした旅籠を再現した「寺田屋」、京都で唯一弁財天を本尊として祀り異国情緒溢れる赤い竜宮門が印象的な「弁財天長建寺」、そして酒づくりの町として有名な伏見ならではの酒蔵の街並みや伏見の酒造りや大手日本酒メーカーの月桂冠の歴史などについて学べる史料館「月桂冠大倉記念館」など、伏見の代表的な史跡・観光スポットへのアクセスに便利となっています。
そして伏見の酒蔵や寺田屋のある龍馬ゆかりの駅であることをPRしようと、駅のホームには龍馬の写真パネルが設置されているほか、北出口には「幕末のまち伏見」「名酒のまち伏見」と題した解説板とその左右に伏見の酒樽のオブジェ、それにここにも坂本龍馬の写真パネルが設置されています。
一方、宇治川にほど近い南出口は駅前が2004年(平成16年)に新たに整備されたバスターミナルが設置されているほか、駅の南西に位置し伏見港をイメージした港があり、市民の憩いの場にもなっている「伏見港公園」や、大正期の宇治川観月橋周辺の築堤工事の影響で生じた宇治川と濠川の水位差を調整し船の往来を可能にする役割を担った「三栖閘門(みすこうもん)」とその歴史について学べる「三栖黄門資料館」などへのアクセスに便利です。
ちなみに中書島には京阪のほかにも日本初の路面電車としても知られる京都電気鉄道(後の京都市電)の伏見線が1914年(大正3年)8月25日に中書島まで延伸され、京都駅にほど近い塩小路高倉から竹田街道を経由して中書島までを結ぶ路線として長らく親しまれていましたが、自動車の普及に伴って乗客の減少が続き、経営が困難となったことで京都市電は順次路線が廃止されていき、伏見線も1970年(昭和45年)4月1日に廃止され、市バス81・82号系統に転換されています。
この点、駅の北出口の北側に整備されている駅前広場が、京都市電の路面電車の電停のあった場所だといい、傍らにはそのことを説明する駒札も立てられています。