京都府乙訓郡大山崎町大山崎竜光、天王山の麓、大山崎町のJR山崎駅の駅前にある臨済宗東福寺派の寺院。
山号は豊興山で、本尊は聖観音。
当地は一説には俳人で連歌師の祖でもある山崎宗鑑(やまざきそうかん)の隠棲地と伝わり、室町後期の明応年間(1492~1501年)、宗鑑の結んだ草庵「待月庵」を宗鑑が晩年に四国に移った後に禅寺に改めたのがはじまり。
寺号は中国宋代の臨済宗を代表する禅僧・大慧宗杲(だいえそうこう 1089-1163)の庵号「妙喜」から採られ、東福寺の開山・円爾(聖一国師)の法嗣(弟子)で開山の春嶽士芳(しゅんがくしほう)が命名したものです。
士芳は天王山の南麓にあった東福寺の末寺・地蔵寺の僧で、当時付近には同寺の塔頭寺院が多数あったことから、妙喜庵も地蔵寺の塔頭の一つとして建立されたと考えられています。
その後、妙喜庵第3世住持・功叔士紡(こうしゅくしぼう ?-1594)の時代の1582年(天正10年)6月13日に勃発した天下分け目の天王山の戦い「山崎の戦い」で明智光秀に勝利した羽柴秀吉は、天王山に城を築き、山崎を本拠として半年間ほど滞在しますが、妙喜庵はこの際の城下の会所として接客用に用いられたと考えられ、諸大名を集めるとともに堺から千利休を呼び寄せ、茶会を開いていたと伝わっています。
そしてこの山崎滞在時に秀吉が千利休が建てさせたとされる小間の茶室「待庵(たいあん)」は、建物の端々に利休の非凡さが感じられる千利休作と信じ得る唯一の茶室であり、現存する日本最古の茶室であることから国宝に指定。
荒壁に2畳の小間、頭を下げねば入れない躙口(にじりぐち)とその手前の飛び石など、後の茶室の原型となっただけでなく、後の住宅にも影響を与えた数寄屋造の建物の原型ともいわれていて、また愛知犬山の「如庵(にょあん)」、大徳寺塔頭・龍光院の「密庵(みったん)」と共に「三名席(国宝三茶室)」にも数えられる名品です。
千利休が切腹した後、利休屋敷に設けられた茶室は後に解体され、江戸時代に入った慶長年間(1596~1615年)に親交のあった功叔士紡が住持を務めていた当庵に伝わり、移築・再建されたと考えられています。
また江戸時代の妙喜庵は、離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)の社領内に4石余と円明寺村に44石を領していたが、幕末には衰微し、明治に入ってからも鉄道の敷設や駅舎の建設に伴って寺地を削られたものの、他の山崎の東福寺派の寺院が廃寺になる中、現在まで法灯をつないでいます。
なお待庵は書院と明月堂に付加されたもので、書院は室町末期、文明年間(1469-87)の建築で、国の重要文化財に指定されています。
拝観するには希望日の1カ月前までに、往復はがきによる予約申し込みが必要で、定員は1グループ10名までで、大学生以上の年齢に限られています。