下桂御霊神社とは?(基本データ)
- 名前
- 下桂御霊神社(しもかつらごりょうじんじゃ)
- エリア
- 松尾・桂・西京極
- ジャンル
- 建立・設立
- 876年(貞観18年)4月18日
- 祭神
- 橘逸勢(たちばなのはやなり)
- ご利益
- 例祭
- 5月第3日曜(例大祭)
- 神紋・社紋
- アクセス
- 駐車場
- 台(無料)
- 拝観料
- 無料
- お休み
- 無休
- 拝観時間
- 境内自由
- 住所
- 〒615-8061
京都府京都市西京区桂久方町47-1 - 電話
- -
- FAX
- -
- 公式サイト
- 下桂・御霊神社
西京区・区民の誇りの木 京都市情報館
京都市西京区桂久方町、京都市西部、桂離宮の北西に鎮座する神社で、祭神として平安初期の貴族で能書家としても知られた橘逸勢(たちばなのはやなり 782?-842)を祀っています。
奈良時代の737年(天平9年)に天然痘の流行によって藤原四兄弟が相次いで病死した後、左大臣として第45代・聖武天皇(しょうむてんのう 701-56)を支え権勢を誇った橘氏の祖・橘諸兄(たちばなのもろえ 684-757)の曽孫にあたり、804年(延暦23年)に最澄や空海らとともに遣唐使の一員として入唐すると唐人から「橘秀才」と称賛され、帰国後は従五位下に叙せられるとともに840年(承和7年)に但馬権守となります。
また弘法大師空海や嵯峨天皇とともに「三筆」といわれる書道の名人で、平安京の大内裏の諸門や比叡山の額などにその筆が用いられたほか、「伊都内親王願文」や「興福寺銅燈台扉銘」も逸勢の書と伝えられています。
しかし842年(承和9年)7月、嵯峨上皇の葬儀の翌日に伴健岑(とものこわみね)とともに皇太子・恒貞親王(つねさだ)を擁して東国に入り挙兵する謀叛を企てたとして捕えられて健岑とともに流罪となり、親王が皇太子を廃されるという政治的陰謀事件「承和の変」が発生。
この事件は藤原良房(よしふさ)が大伴氏や橘氏といった旧豪族の打倒を狙って起こした事件といわれていて、事件をきっかけに良房が大納言に進むとともにその妹・順子(じゅんし)と仁明天皇との間に生まれた道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となり、その後の藤原北家(ほっけ)による摂関政治体制の出発点となりました。
この事件で捕えられた橘逸勢は厳しい拷問を受けるも罪状を認めず、非人の姓を与えられた上に伊豆への流罪が決まりますが、護送途中の遠江国板築駅(静岡県三カ日町)で病死するという悲劇的な最期を遂げます。
そしてその没後、都では不思議なことが数多く起きたため、850年(嘉祥3年)には罪を許され、また無実の罪や疫病などで非業の死を遂げた人々の霊が祟りや疫病や天変地異などの災いをもたらすと考え、これを神として祀ることでその霊を鎮めようとするいわゆる「御霊信仰」の高まりを受け、863年(貞観5年)に神泉苑にて御霊会(ごりょうえ)が催された際にも早良親王らと共にその霊が慰撫されており、更には上御霊神社や下御霊神社にも八所御霊の1柱として祀られています。
当社は876年(貞観18年)4月18日、その橘逸勢を祭神として勧請して創建されたと伝わり、以降は旧下桂村、現在の桂東学区と桂学区の一部の産土神として厚い信仰を集めました。
また江戸初期に神社のすぐそばに「桂離宮」を造営した桂宮家(八条宮家)など皇室からも崇敬を集めるとともに多くの寄進を受けており、桂光院智仁親王より後水尾天皇が使用していた鳳輦を神輿として寄進されているほか、後水尾天皇の「御霊宮」の宸翰勅額を下賜されていて、これらの社宝が毎年5月第3日曜日の「例大祭」にて展示されています。
その他にも境内には樹齢400年の「ムクロジ」や「ナギ」「イチョウ」の巨木が育っていて、いずれも西京区の「区民誇りの木」に選定されています。
後水尾天皇の勅額
南鳥居の右
南鳥居の右
南鳥居くぐって右
社務所の前
高さ12m、幹周1.4mで、西京区の「区民誇りの木」に選定
参道の途中右
本殿右
正面に松の絵が描かれている
2009年(平成21年)度の例大祭に合わせて能舞台の廊下に設置
本殿左隣
参道途中左手
高さ13.5m、幹周3.3mで、樹齢400年以上と推定され、西京区の「区民誇りの木」に選定
竹垣に囲まれて大切に保存されている
境内南西角
高さ20m、幹周2.4mで、西京区の「区民誇りの木」に選定
表示する記事はありません