京都市右京区嵯峨鳥居本化野(さがとりいもとあだしの)町にある浄土宗の寺院。
正式名は「華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)念仏寺」で、山号は華西山、本尊は寺伝にて湛慶(たんけい)作と伝わる阿弥陀如来(あみだにょらい)です。
そもそも「化野(あだしの)」の「あだし」とは仏教の言葉ではかない、むなしいとの意味で、また「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ変わる事や、極楽浄土に往来する願いなどを表わしているといいます。
和歌の世界では「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞にも使われているほか、吉田兼好の随筆「徒然草(つれづれぐさ)」や西行法師の歌の中で、人生の無常さが「化野」に例えられています。
その化野の地は、東山の鳥辺野(とりべの)や洛北の蓮台野(れんだいの)とともに古来より平安京の「三大葬送地」の一つで、当初は風葬の地として知られた場所でした。
寺伝によれば、平安初期の811年(弘仁2年)に弘法大師空海がそんお化野の地に葬送や死者の追善供養の寺として「五智山如来寺(ごちさんにょらいじ)」を開創し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのがはじまりです。
ちなみにこの際に空海により土葬の習慣が伝えられるとともに、石仏を奉るようになったといわれています。
当初は真言宗の寺院でしたが、鎌倉時代に浄土宗の祖・法然(ほうねん)(源空)が中興して以後は浄土宗の寺院に。
法然が延暦寺の弾圧から逃れ愛宕山の月輪寺に籠った頃にこの地に念仏道場を開いたことから、現寺号に改められたといわれています。
その後、明治後期の1903年(明治36年)頃には地元の人々の協力の下で、何百年という歳月を経て無縁仏と化し化野の山野に散乱・埋没して忘れ去られていた石仏や石塔が掘り出して集められ、この地に祀られました。
これらの石仏・石塔群は境内の中央部に大小合わせて約8,000体あり、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえて配列されているといい、賽の河原に模して「西院の河原」と名づけられています。
そしてこの「西院の河原」では毎年地蔵盆の8月23・24日の夕刻より、石仏石塔にろうそくを灯して供養する「千灯供養」が行われており、境内は幽玄な灯りに包まれます。
現在の本堂と庫裡は江戸時代の1712年(正徳2年)に黒田如水(官兵衛)の外孫にあたる寂道により再建。
境内には他に、裏手にある裏山の霊園へと続く道でCMなどの撮影にもよく使われるという「竹林の小径」や、「角倉素庵(すみのくらそあん)の墓」などの見どころがあります。
またお釈迦様の遺骨である仏舎利を祀る「仏舎利塔」と、その手前には京都ではここだけという、インドの仏教寺院ではよくある鳥居のような不思議な形をした「トラナ」が建っていることでも有名なほか、竹林の小径を経た境内の奥に祀られ、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六つの世界を表わす「六面六体地蔵」も有名で、時計回りに1体1体お水をかけて拝むことで、輪廻の輪から人間を救ってくれるといいます。
更に求めに応じてさまざまな姿に変え、悪いことや病気から守ってくださる「延命地蔵尊」や、人々を苦しみから救ってくださる「お迎え地蔵」、そして「水子地蔵」もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われています。
春は桜、秋は紅葉の名所で、とりわけ紅葉は「西院の河原」を中心に美しく色づくことで知られています。