京都市右京区嵯峨野、嵯峨野を奥へと進んだ北のはずれにある天台宗寺院。
愛宕山に鎮座する愛宕神社の表参道の入口にあたる山麓の清滝のすぐそばに位置し「嵯峨野めぐり」の始発点として知られています。
山号は等覚山(とうかくざん)で、本尊の厄除け千手観音で平安時代より厄除けの寺として厚く信仰されてきました。
創建は奈良時代の766年(天平神護2年)、聖武天皇の娘にあたる第48代・稱徳天皇(しょうとくてんのう)による開基で、平安京遷都前の山城国愛宕郡(やましろのくに おたぎごうり)の地に建てられたことから「愛宕寺(おたぎでら)」と名づけられました。
当初は現在の東山松原通弓矢町付近、建仁寺の南の六波羅蜜寺の近くにあったといい、跡地には石碑も建てられています。
その後、平安初期に鴨川の洪水によって堂宇が流出し廃寺同然となりますが、醍醐天皇の命により911年(延喜11年)に天台宗の僧・千観内供(伝燈大法師(でんとうだいほうし) 918-84)によって再興され、等覚山愛宕院と号し、天台宗比叡山延暦寺の末寺となります。
この点、千観はいつも念仏を唱えていたことから人々から「念仏聖人」とも呼ばれ、これにちなんで「愛宕念仏寺」と称されるようになったといわれています。
この際いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えますが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりの状態となり、大正時代の1922年(大正11年)に堂宇の保存のため、奥嵯峨の現在地へと移築されました。
しかしその後は再び荒廃しますが、1955年(昭和30年)に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝氏が入寺すると、寺は見違えるような復興を遂げることとなります。
この点、西村氏は僧であるとともに仏師・仏像彫刻家としても知られた人物で、三十三間堂の千一体の仏像群のうちの600体や広隆寺の弥勒菩薩、東寺の焼け仏などの有名な仏像の修復にあたったほか、東京芸術大学の教授として、多くの学生を指導しています。
その西村氏が1981年(昭和56年)、仁王門の解体復元修理を行った際に寺門興隆を祈念して境内を羅漢の石像で一杯にしたいと発願し開始されたのが「昭和の羅漢彫り」。
一般参拝者の手によって彫られた石造の羅漢像を寺に奉納してもらうというユニークな試みで、彫られた羅漢像は一体一体が個性的で表情豊か。その味わい深いどこかユーモラスで微笑ましい雰囲気が訪れる人の心を和ませてくれると評判となりました。
10年後の1991年(平成3年)には1200体に達し「千二百羅漢落慶法要」が厳修され、現在は別名「千二百羅漢の寺」と呼ばれて親しまれています。
この他の見どころとしては、現在の本堂は度々移建されて補修を加えられているものの鎌倉中期の再建で、和様建築の代表的な遺構として国の重要文化財に指定。
そして堂内にある木造千観内供座像は、口を開いて念仏を唱える千観の姿をしており、鎌倉期の肖像彫刻の傑作として知られています。
また地蔵堂には、霊験あらたかな「火之要慎(火の用心)」のお札で知られる愛宕山本地仏の「火除地蔵菩薩坐像」が明治維新後の廃仏毀釈の際に現在の愛宕神社より移され、堂内に安置されています。