京都市右京区嵯峨愛宕町、京都市最高峰で標高は924m、嵯峨野の北西にそびえ山城国と丹波国との境界をなす愛宕山の山頂に鎮座する神社。旧称は阿多古神社。
全国各地に約900社を数える同名の神社の総本社で、「日本三大火防神社」の一つにも挙げられるように古くより「火伏せ」や「防火」に霊験のある神社として知られています。
そして京都の人々からは「愛宕さん(あたごさん)」と呼ばれて親しまれ、京の都の鬼門である北東を守護する比叡山延暦寺とともに古くより深く信仰されてきました。
とりわけ「火迺要慎(火の用心)」と書かれたお札は有名で、京都市内の各家庭の台所や飲食店などでは当たり前のように壁などに貼られているのを目にすることができます。
また「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれ、親子で参拝する姿も多く目にすることができます。
その創祀年代は古く、社伝「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志 白雲寺縁起」によると、大宝年間(701-704)に修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)=役行者(えんのぎようじゃ)が、白山の開祖として知られる泰澄(たいちょう)と共に朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立したのがはじまりとされ、その後781年(天応元年)に勅命を受けた和気清麻呂(わけのきよまろ)が、僧・慶俊と共に朝日峰に「白雲寺」を建立して中興しました。
平安京となってからは王城の乾(いぬい)=北西の方角の守護神となり、「愛宕権現(ごんげん)(愛宕大権現・愛当護大権現)」と称し王城鎮護の社、鎮護国家の道場として崇敬を集め、また「火伏せの神」として民間にも広く信仰され、全国各地に愛宕神社が勧請されているのは前述のとおりです。
中世以降は神仏習合の山岳修業道場として信仰を集め、9世紀頃には延暦寺のある比叡山や比良山などと共に七高山の霊山の一つに数えられていたほか、江戸時代には境内に勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院などの社僧の住坊が存在するなどし、繁栄していたといい、その後明治初期の「神仏分離令」によって白雲寺が廃絶し、「愛宕神社」となり現在に至っています。
この点、江戸末期までの神仏習合の白雲寺の時代は本殿には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵の地蔵尊が祀られていましたが、代わりに稚産日命(わくむすびのみことワカムスビノミコト)ら計5座の王城鎮護の神が本宮に祀られ、本地仏であった勝軍地蔵は西京区大原野の金蔵寺に移されて現在も大切に祀られています。
他方、奥の院には愛宕山に棲むとされる天狗の太郎坊が「太郎坊大権現」として祀られ、火の神として知られる迦倶槌命(迦遇槌・迦具土神)(かぐつちのみこと)同一視されていましたが、現在は若宮社となり雷神(いかずちのかみ)、そして迦倶槌命ら計3座が祀られています。
参拝方法については、第二次世界大戦前の1929年(昭和4年)から1944年(昭和19年)には、京福電鉄の嵐山駅から参詣路線として、「愛宕山鉄道」の普通鉄道の平坦線とケーブルカーの鋼索線が存在し、愛宕山にはホテルや山上遊園、スキー場が設けられて現在の比叡山と同様の山上リゾート地となっていたといいますが、戦時体制の下で撤去され、戦後は信仰の山に戻り、現在は徒歩でのみの参拝が可能となっています。
登山ルートは複数ありますが、一般的なのは清滝の登山口からの「表参道」で、約4~4.5kmの距離があり、片道で約2~3時間、往復で4~5時間ぐらいで登ることができます。
この点「愛宕詣」はとりわけ江戸中期より盛んであったといい、明治時代、大正時代にかけて数多くの参詣者が愛宕山を目指したといいますが、中でも表参道はその中心となった参詣道で、嵯峨釈迦堂こと清凉寺から愛宕山の登山口にあたる清滝を経て愛宕神社へと至る道は「愛宕街道」と呼ばれ、その途中にある愛宕神社の「一ノ鳥居」の周辺一帯には「鳥居本」名づけられた門前町も形成され大いに発展したといいます。
江戸末期にはそれまでの農家や町家に加えて茶屋なども建ち並ぶようになりましたが、その時代に形成された美しいわらぶき屋根の農家風民家や町家風民家の立ち並ぶ古い街並みの美しい景観は今もなお良好に維持されており、京都市内では祇園新橋、産寧坂、上賀茂とともに4つしかない文化財保護法に基づく「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
中でも江戸時代から続く老舗の2軒の茶店・料亭は有名で、嵯峨鳥居本・上地区の一番奥にある茅葺き屋根の「平野屋」は江戸時代の創業の鮎料理で有名な料亭、同じく「つたや」も、創業400年の歴史を持つ鮎茶屋として広く知られています。
そして鳥居本の一ノ鳥居から愛宕神社までは50丁に分けられていて、1丁ごとに目印があり、参道には階段が整備され、3合目・5合目・7合目には休憩所も設置されています(昔は茶店もあったという)。
また5合目にはスギの大木を祀った大杉大神、7合目過ぎにはハナ売場があり、昔は参詣者に対し火災護符の樒が売られていたといいます。
そしてここで水尾ルートと合流し、15分ほど歩くと到着する黒門は、京口惣門とも呼ばれ、白雲寺時代の京側の惣門で数少ない白雲寺の遺構の1つで、当時はここからが境内でした。
この黒門から400mほど歩くと本殿へと向かう階段があり、ゴールはすぐ目の前です。
他にも以下のようなルートが知られています。
ゆずで有名な水尾の里を通る水尾ルート
愛宕神社前身の白雲寺と関係の深い月輪寺を通る月輪寺ルート
首無地蔵ルート
そして丹波亀岡方面からの参詣ルートである樒原・越畑・神明峠ルート
ちなみに明治期には参詣道の途中にいくつかの茶店があり、土器を投げる「かわらけ投げ」が名物で賑わったといいます。
行事として有名なのは毎年7月31日夜から8月1日未明早朝にかけての「千日詣(千日参り)」で、京都でも有名な年中行事の一つとしてよく知られています。
この日に参拝すると千日分の火伏・防火のご利益があるといわれており、毎年数万人ともいわれる多くの参拝者で境内参道が埋め尽くされます。
最後に戦国時代の1582年、明智光秀が「本能寺の変」の直前に愛宕山に参拝しており「ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」の句を残したほか、神社で引いたおみくじが3回連続で「凶」が出てその後の光秀の運命を暗示しているかのようであったというエピソードは有名です。