京都市右京区、京都市街北西の嵯峨野の最北、小倉山の北麓から北西へと進んだ愛宕山の麓の清滝にかけての、愛宕街道の街道筋にある集落を構える地区。地名の由来は愛宕神社の「一ノ鳥居」付近に集落が形成されたことからといわれています。
美しい茅葺き屋根の農家風民家や町家風民家が建ち並ぶ情緒溢れる町並みが残っていることから、京都市内では祇園新橋、産寧坂、上賀茂とともに4つしかない文化財保護法に基づく「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている地域です。
一帯は古くは「化野(あだしの)」と呼ばれ、京の人々の風葬の地であった場所(現在も町並みの中ほどには弘法大師空海が野ざらしとなっていた遺骸を埋葬したのにはじまり、その後浄土宗の祖・法然の念仏道場となった「千灯供養」で有名な「化野念仏寺」がある)。
その後、室町末期頃に農林業や川漁業を営む人々を中心とした集落として開かれた後、江戸中期に「愛宕詣」が盛んになると農村の集落としての性格に愛宕神社の門前町としての性格が加わり大いに発展。江戸末期にはそれまでの農家や町家に加えて茶屋なども建ち並ぶようになり、大きな発展を遂げました。
そもそも「嵯峨野」の地は「古今和歌集」や「源氏物語」「平家物語」にも登場するなど、平安時代から皇族や貴族の狩猟、遊興の場であった場所でした。
その嵯峨野の北西にそびえる標高924mの愛宕山の頂上に鎮座するのが火伏せの神として知られる「愛宕神社」で、京の都の鬼門である北東を守護する比叡山延暦寺とともに古くより京都の人々から篤く信仰されてきました。
そして嵯峨釈迦堂こと清凉寺から、愛宕山の登山口にあたる清滝を経て、愛宕神社へと至る道は愛宕神社への参詣道として「愛宕街道」と呼ばれ、とりわけ江戸中期から明治時代、大正時代にかけて数多くの参詣者が愛宕山を目指して歩いた場所でした。
その愛宕街道の途中、「八体地蔵尊」の並ぶ三叉路から愛宕神社の「一ノ鳥居」にかけて緩やかな勾配の坂道が約650m続く一帯が「鳥居本」と呼ばれる地区で、現在もなお愛宕神社の門前町として発展してきた古い街並みの美しい景観が良好に維持されています。
同地区は瓦屋根の町家風民家が多い「下地区」と、茅葺きの農家が多い「上地区」の二つの地区で構成されており、嵯峨嵐山の方から坂を上っていくと、地区の中ほどにある化野念仏寺を境にして瓦屋根の町家から田舎屋風の茅葺き農家の町並みへと変わっていくのがよく分かります。
中でも愛宕神社の一之鳥居の付近には昔の町並みがよく残っており、江戸時代から続く老舗の2軒の茶店・料亭があることで知られています。
このうち「平野屋」は鮎料理で有名な料亭で江戸時代の創業で、同じく「つたや」も、創業400年の歴史を持つ鮎茶屋として営業を続けています。
また化野念仏寺より少し上手には「京都市嵯峨鳥居本町並み保存館」があり、明治初期に建造された嵯峨鳥居本地区の伝統建造物である民家が公開されているほか、京都市の町並み保存事業や景観施策を説明するパネルや、昭和初期の愛宕街道の町並みを再現した復元模型も展示されており、今は廃線となった愛宕山鉄道の路線の様子なども知ることができるようになっています。
その他にも清滝の手前に門を構える「千二百羅漢」と呼ばれる1200体もの表情豊かな石像の羅漢が並ぶ「愛宕念仏寺」や、愛宕街道を隔てた化野念仏寺の向かいにあり、その斜面に京都の夏の風物詩として知られる「五山送り火」の一つ「鳥居形」が灯されることで有名な「曼荼羅山」なども見どころです。