京都市東山区正面通大和大路東入、東大路通の一筋西側を南北に通る大和大路通沿いに位置し、豊臣秀吉を祀る豊国神社の北隣にある天台宗山門派の寺院。
安土桃山時代に豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建されたことから、「大仏」または「大仏殿」の通称で親しまれています。
安土桃山時代のこと、天下をほぼ手中に収めた秀吉は、信長に仕えた戦国武将・松永久秀の焼き討ちによって焼損した奈良・東大寺の大仏に代わる大仏の造立を発願。
1586年(天正14年)からおよそ10年をかけて造営され、1595年(文禄4年)に巨大な大仏殿が完成しました。
そしてこの大仏殿には金漆塗の木像大仏「木造毘盧遮那仏坐像(びるしゃなぶつ)」が安置されましたが、翌年に京都を襲った「慶長大地震」によって初代大仏は大仏殿ともども大破倒壊してしまいます。
この点、この際に秀吉が「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」と大破した大仏に弓矢を放ったというエピソードは有名です。
その後再建が計画されるものの、秀吉は大仏開眼供養を待たずに1598年(慶長3年)に亡くなってしまい、秀吉の子・豊臣秀頼がその遺志を継ぐこととなりますが、1602年(慶長7年)に鋳造中の大仏の腹中より出火し大仏殿とともに焼失。
これにもめげずに1612年(慶長17年)に再び再建を果たすと、金銅製で奈良・東大寺の大仏よりも大きい高さ6丈3尺(約19m)の2代目大仏が安置されたといいます。
ところが大仏の開眼は有名な「鐘銘事件(しょうめいじけん)」で延期となり、更にその直後に起こった「大坂の陣」で豊臣氏が滅亡した後も、大仏と大仏殿は残されることとなりますが、数十年後の1662年(寛文2年)に発生した震災を受けて小破したのをきっかけに2代目は黄金での造立は不用として溶かされて寛永通宝に改鋳されてしまったといい、その代わりに1667年(寛文7年)に3代目の大仏が木造で再建されています。
しかしその3代目の大仏も1798年(寛政10年)に落雷による火災で大仏殿もろとも焼失。その様子は「京の大仏つぁんは天火で焼けてな、三十三間堂が焼け残つた、あらどんどんどん、こらどんどんどん、うしろの正面どなた」とわらべ歌にも歌われたといいます。
その後、江戸後期入った天保年間の1843年(天保14年)に尾張国の有志により、大きさ1/10の上半身のみの木造半身像が寄進され、「京の大仏」と呼ばれて親しまれていましたが、1973年(昭和48年)に火災によりこの4代目の大仏も焼失してしまっています。
こうして焼失と再建を繰り返した日本一の大仏の造営計画は結局は幻に終わり、現在は境内および京都国立博物館の大和大路通沿いに巨大な石垣の一部が当時と変わらぬ姿で残され、往時を忍ばせるのみとなっています。
その一方でこれら方広寺旧境内を区切っていた石塁が、豊国神社西方にある通称「耳塚」と、同神社境内東南にある通称「馬塚」の2基の石塔(五輪塔)とともに1969年(昭和44年)に「方広寺石塁及び石塔」として国の史跡に指定されています(更に2014年には大仏殿跡を追加指定)
また境内の東側をやや進んだ所には、その名を留める「大仏殿跡緑地公園」がありますが、この場所は大仏殿の中心部分にあたり、2000年(平成12年)に遺構の状態を確認するため、部分的な発掘調査が実施されています。
そしてその結果、大仏殿の正確な位置および規模が判明し、南北88m、東西54m、高さ49mで、大仏の全高が18mの東大寺大仏殿をも凌ぐ大きさであったことが確認されました。
伽藍は創建当時は現在の豊国神社、京都国立博物館などの敷地をも含む広大な境内を有していましたが、明治維新後の1871年(明治4年)に境内の大部分が国に収公され、更に1877年(明治10年)に秀吉を祀る「豊国神社」が建てられた際に更に縮小、現在の規模となっています。
主要な堂宇としては本堂と鐘楼が残るのみですが、このうち「本堂」には秀頼が再建した2代目の大仏の眉間にある白毫部分に納められていたという「眉間籠り仏」や、2代目の大仏を模し10分の1に大きさに縮少して造られたという5代目の大仏「盧舎那坐像」が安置されています。
一方の「鐘楼」は明治時代に再建されたものですが、内部にある「梵鐘」は高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7tの巨大なもので、東大寺や知恩院のものと並んで「日本三大名鐘」の一つにも数えられているほか、1968年(昭和43年)に国の重要文化財にも指定されています。
この点、この梵鐘は江戸初期、秀頼の時代の1612年(慶長17年)に三条釜座の鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって造られたもので、鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が、徳川家康の「家」と「康」の字を分断し、家康を冒涜するものとしてその怒りを買い、「大阪の陣」のきっかけとなり豊臣家の滅亡を招いた話は有名です。
ちなみに「国家安康」は国の安泰を願う一般的な表現であることから、現在では徳川家が豊臣家を潰すためにこの銘文を曲解し因縁を付けたものと解釈されています。
この他に方広寺の遺構としては、三十三間堂の東にある「南大門」が大仏殿の真南にあった門で、国の重文に指定されており、またこれに合わせて当時三十三間堂の西と南には「太閤塀」が築かれたといい、現在もその一部分が遺構として残っています。
また慶長5年(1600年)の銘のある「西大門」は現代に入り東寺の南大門として移築され現存しています。
この他の見どころとしては、境内の大黒天堂に安置されている大黒天像(大黒尊天)は、桓武天皇の勅命により伝教大師最澄が延暦寺を建立するために比叡山を登山中、お告げにより彫刻したと伝えられる像で、更にそれを秀吉が気に入り1/10サイズで作らせ手元に置いたとされる小さい像もあるといいます。
また当時の方広寺の門前にあった「隅田屋」という店で「大仏餅」という餅が売られていたといい、1780年(安永9年)に刊行された「都名所図会」や里見八犬伝で知られる滝沢馬琴の旅行記などにも言及があるなど、評判を集めたといいます。
この点、店は戦後に廃業となりましたが、現在境内の西にある和菓子の「甘春堂」にて当時と同じ製法にこだわって復刻されたものが製造・販売されています。