京都市東山区正面通本町東入本町、豊国神社前から正面通を西に進んですぐ、和菓子屋・甘春堂東店と並ぶようにして立つ浄土宗西山禅林寺派の寺院。
正式名は「熊谷山専定寺(くまがいざんせんじょうじ)」。
寺伝によれば1200年の初期のこと、専定法師(せんじょう)という旅の僧が付近の松の木陰で休んでいると、2羽の烏が梢にとまり、「今日は、蓮生坊(れんしょう)の極楽往生の日である」と知らせ、南の空へ飛び立っていった。
法師が不思議に思って蓮生坊の庵を訪ねたところ、烏が話していたとおりの時刻である1208年(承元2年)9月14日に亡くなっていたといい、そこで法師はここを仏法有縁の霊域と感じ、草庵を結んで専修念仏の日々を送るようになったのがはじまりです。
このような伝承により「烏寺」の通称で呼ばれるようになり、またかつては、この故事を伝えるために境内の松の梢に土焼の烏が置かれて「大仏(方広寺)七不思議」の一つに数えられていたといいます。
ちなみに「蓮生坊」とは平安末期から鎌倉初期に活躍した武蔵国熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)出身の武将・熊谷直実(くまがいなおざね 1141-1207)の出家後の名前。
「源平合戦」において源頼朝の御家人として活躍し、「一ノ谷の戦い」で源義経の鵯越の逆落としに従い、平敦盛を討ち取った武将として知られ、「平家物語」の「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎討ちは、能や幸若舞の演目「敦盛」にも取り上げられています。
しかし我が子と同じ年頃の敦盛を討ち取ったことで無常感を深くし、晩年は法然に師事して京都の金戒光明寺にて出家し「法力房蓮生」と号して熱心な念仏の信者となり、熊谷入道と通称され、粟生光明寺などいくつかの寺院を建立したことでも知られています。
この他に本堂内に安置されている秘仏の本尊・阿弥陀如来坐像は平安後期の作で後白河法皇の念持仏と伝えられ、金箔による像内化粧が施されているなど貴重なもので、京都市指定文化財に指定されています。
現在は通常非公開の寺院であり、また境内にあったという松や土焼の烏の姿は今はみられませんが、山門入ってすぐ右側にある石標や山門両脇の瓦などに残されたカラスの意匠が往時の様子を伝えています。