平安神宮の北側に位置する神社で、聖護院一帯の産土神として知られています。
平安初期の869年(貞観11年)の創建で、当初は現在の平安神宮の境内、蒼竜楼(そうりゅうろう)の東北にある西天王塚付近に社があり、岡崎の東天王社(現在の岡崎神社)に対して「西天王社」と呼ばれていたといいます。
そして平安末期の1142年(康治元年)には鳥羽天皇の皇后・美福門院(びふくもんいん)の建てた歓喜光院の鎮守(かんきこういん)とされました。
その後、度重なる戦火を避けて近くの吉田山、現在の山蔭神社付近に移され、そこに590年間鎮座しており、更に明治初期の仏教排斥運動「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の流れに伴って社名を「須賀神社」に改めています。
この点「須賀神社」の名は須佐之男命が「わがこころすがすがし」と歌を詠んだ所から名付けられたといいます。
1924年(大正13年)に元の御旅所である現在地に戻り、社殿が建てられ、現在は聖護院一帯の産土神として地域の人々に厚く信仰されています。
祭神は
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、櫛稲田比売命(くしいなだひめのみこと)を主神に、
久那斗神(くなどのかみ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひこのかみ)を加え5柱が祀られています。
この点「日本神話」にも登場し、八坂神社の祭神としても有名な素戔嗚尊は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の生贄にされそうになった櫛稲田比賣神を救い、それがきっかけで結婚し夫婦円満に暮らしたことから、当社は「縁結び」や「家内安全」にご利益があるとされています。
また1964年(昭和39年)に「交通神社」が合祀されて以来、全国的にも珍しい「交通安全」専門の神様としても広く信仰を集めています。
こちらの祭神は八衢比古命(やちまたひこのみこと)と八衢比賣命(やちまたひめのみこと)の夫婦神で、久那斗之神(くなどのかみ)は神様の道案内をしていたといい、人里の入口などで侵入してくる魔物を防いでくれるといいます。
日頃から車を運転するドライバーなども多く訪れるといい、また交通安全のお守りのみならず、旅の安全祈願やペットの交通安全祈願などの授与品も手に入るようです。
現在の社殿は2005年(平成17年)に本殿や拝殿が焼失した後、2006年(平成18年)12月に再建されたもので、拝殿の左側に交通神社、右側に須賀神社を祀っています。
近年は2月2日と3日の「節分祭」の際に姿を見せる「懸想文売り」でも有名となっており、節分当日には烏帽子(えぼし)・水干(すいかん)姿に顔を覆面で隠した二人組の男性が境内に現れ、2000枚の懸想文を参拝者に授与しています(1000円)。
この点「懸想文(けそうぶみ)」とは今でいうラブレターのことで、まだ限られた身分の者しか文字が書けなかった時代には、他人になり代わって恋心を代筆することが商売として行われていましたが、この風習は平安時代から始まり、江戸時代になると最も盛んに行われていたといいます。
ちなみに覆面で顔を隠しているのは代筆を商売にしていたのが主に公家だったからで、公家や武士の中には家柄は良くてもお金に困ることもあったことから、この副業が人に知られないように顔を隠して行っていたといいます。
そしてこの風習は明治以降廃れていましたが、戦後になり須賀神社において復活し、毎年節分祭の2日間限定で懸想文売りが姿を見せるようになり、近年はとりわけ縁結びのご利益を求める若い女性を中心に人気を集めているといいます。
また美人祈願の信仰もあり、懸想文のお札を誰にも見られないようにお守り代わりにたんすや鏡台の奥にしまっておくと、美しくなれ、さらに衣装持ちになれるといわれています。