京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町、京都有数の繁華街である祇園の四条通南側に大伽藍を有する臨済宗建仁寺派の大本山・建仁寺の塔頭寺院。
建仁寺の開山・栄西の黄龍派(おうりょうは)の法脈を受け継ぐ建仁寺第35世・龍山徳見(真源大照禅師)が開創。
この点、龍山徳見(りゅうざんとくけん 1284-1358)は鎌倉後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる関東の豪族にして源頼朝の信頼を集めた千葉常胤以来、古代末期から中世、戦国末期に至るまで下総国(現在の千葉県北部・茨城県西部)に勢力を保ち続けた名門・千葉氏の出身。
幼い頃から学問に優れ、12歳の時に鎌倉五山の寿福寺に入って禅の道を歩みはじめ、最初は栄西の法孫である寂庵上昭(じゃくあんじょうしょう)、次いで中国から来た高僧・一山一寧(いっさんいちねい 1247-1317)に師事し、その才能を見抜いた一山から中国への渡航を進められ、22歳で元へと渡ります。
寧波に上陸の後、幾多の苦難を乗り越え、元王朝から認められて日本人としては初となる官寺の住持となり、中国で途絶えかけた臨済宗黄龍派を中興するなど、元でも秀才ぶりを発揮して45年もの歳月を過ごした後、室町幕府を開いた足利尊氏・直義兄弟の招きで帰国の途に着き、京都にて建仁寺35世、南禅寺24世、天龍寺6世の住持として活躍、また夢窓疎石の弟子・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)や義堂周信(ぎどうしゅうしん)などの後進の指導にもあたり、五山文学の担い手にも大きな影響を与えた人物です。
当初は「知足院」と号していたといい、龍山徳見の遺骨が知足院に葬られてからは、その法脈を継ぐ当院3世・文林寿郁(ぶんりんじゅいく)の「両足院」、一庵一麟(いちあんいちりん)の「霊泉院(現在の霊源院)」などを子院に持つ黄龍派寺院の本院で、知足院の別院または徒弟院(つちえん)として建仁寺の開山堂「護国院」の中にあったといいます。
天文年間の火災の後「知足院」と「両足院」の両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至っていますが、「知足院」ではなく「両足院」と改められた理由については諸説あるものの、一説として時の天皇であった第105代・後奈良天皇(ごならてんのう 1495-1557)の諱名「知仁」に触れるためだといわれています。
ちなみに「両足(りょうそく)」とは、仏の尊称である「両足尊(りょうそくそん)」にちなんだもので、すべての生類を多足・無足・両足に分けた上で、その中で両足のものが最も尊く、更に仏は両足の生物の中で最も尊いということから仏をこのように表し、その象徴的な解釈として知恵と慈悲の両方が足りていることを意味しているのだそうです。
以後は「両足院」は安土桃山から江戸期の8世・利峰東鋭の代までは主に室町時代に中国より来日し餡入りの饅頭の製法を伝えたことで知られる饅頭の祖・林浄因(りんじょういん)の子孫によって、一方「霊泉院」は龍山の生家・千葉氏出身の禅僧たちによって護持され、この2院は栄西の法脈を受け継ぐ黄龍派の中心寺院として江戸初期まで輪番で開山堂「護国院」を守塔したといいます。
また室町中期までは「五山文学」の最高峰の寺院であり、江戸期に入っても10世・雲外東竺など当院の住持が、五山の中で学徳抜群の高僧に与えられる「碩学禄」を授与されるなど、「建仁寺の学問面」の中核も担った寺院だといい、更に創建時から明治初期にかけては歴代住持から数多くの建仁寺住持を輩出し、明治時代の新制度による建仁寺派の初代管長も当院15世・荊叟和尚が務めるなど、建仁寺にとって重要な僧侶を輩出する寺院としての性格も持ち合わせていたといいます。
現在の「方丈(本堂)」は江戸後期の嘉永年間(1848-54)、16世・荊叟東?(けいそうとうぶん)の時代に再建されたもので、室中に二重格天井を備え、内陣には本尊「阿弥陀如来立像」を安置。
この他に境内の北側には鎮守としての「毘沙門天堂」があり、堂内の毘沙門天像は元々は鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏であったものが織田信長による「比叡山焼き討ち」の際に鞍馬の僧が像の安全を危惧して室町将軍の茶家で筑前黒田家の京都御用達・比喜多養清の所へ疎開させられた後、黒田家から両足院へと渡ったものです。
「関ヶ原の合戦」において天才軍師・黒田官兵衛の子である黒田長政は出陣に際して内兜の中にこの尊像を収めて戦い、勝利したことから、以後は代々黒田家にて大切に守られ信仰されてきましたが、明治維新後の1877年(明治10年)頃に縁あって両足院へ寄進されたといいます。
勝利の神として商売繁盛、合格祈願、良縁成就、誓願成就などにご利益があるほか、祇園の芸舞妓の縁結びとして、また毘沙門天堂の狛犬が虎であることから、寅年の本尊としても信仰を集めています。
庭園は390坪の敷地があり、主に白砂と苔に青松が美しい「唐門前庭」、方丈と庫裡の間にある坪庭「閼伽井庭」、枯山水庭園の「方丈前庭」、そして池泉廻遊式庭園「書院前庭」の4つの庭園で構成。
このうち「書院前庭」は薮内家中興の祖である薮内流5代目・薮内竹心(やぶのうちちくしん 1678-1745)(紹智)が江戸中期に作庭したもので京都府の名勝にも指定されていて、初夏の頃になると葉の一部を徐々に白色へと変化させていき、まるで美しい花が咲いたように見える「半夏生(ハンゲショウ)」が池の周辺を彩ることで有名。
池の北側にはいずれも東京・日本橋に呉服店「白木屋(後の東急百貨店)」を開業した大村家による茶室で、織田信長の弟・織田有楽斎好みの国宝「如庵」の写しである「水月亭」と、その右に六帖席の「臨池亭」が並ぶように建ち、趣を添えてくれています。
その他にも室町期の画僧・如拙(じょせつ)作と伝わり孔子・釈迦・老子が寄り添う姿を描いた重要文化財の「三教図」をはじめ、桃山~江戸初期に活躍した絵師・長谷川等伯(はせがわとうはく 1539-1610)の筆による「竹林七賢図屏風」「水辺童子図襖」、江戸中期に活躍した日本画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう 1716-1800)の「雪梅雄鶏図」など、書物・掛軸・襖絵・屏風や美術品などに多くの文化財を所蔵しています。
通常非公開の寺院ですが、新春1月に「新春特別公開」、半夏生の見頃の時期に合わせた6~7月上旬に「初夏の庭園特別公開」、そして秋にも「秋の特別公開」と年に数回特別公開が実施しされており、期間中は同院に伝わる貴重な寺宝などの公開も行われます。
また写経や坐禅、ヨガなどの体験も人気で、坐禅体験や写経ほぼ毎日受け入れをしており、予約をすれば有料にて体験をすることができるほか、その他にもまた禅が育む美や叡智を基にしたクリエイティブな感性を大切にしており、現代アーティストの表現の場を提供するとともにアート関連の展示会を数多く行うなど、新しい提案や試みにも積極的に取り組んでいる寺院です。