京都市東山区にある臨済宗建仁寺派に属する塔頭寺院の一つ。
山号は大椿山で、本尊は薬師如来(重文)。
「六道さん」の名で親しまれ、毎年8月7~10日に開催されるお盆の精霊迎え(しょうりょうむかえ)「六道まいり」の寺として名高く、今昔物語にも登場するという鐘楼の「迎え鐘」は京にお盆の始まりを告げる鐘として有名です。
当日は先祖の霊を呼び寄せるよりしろとなる「高野槇(こうやまき)」を求め、朝早くから夜まで数多くの参拝客で賑わいます。
周辺一帯は昔、東山山麓の葬送地・鳥辺野の入口に位置していたため、現世と冥界の接点すなわち「六道の辻」と呼ばれていた場所でした。
「六道」とは仏教の教義でいう地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・阿修羅(しゅら)・人間(人道)・天上(天道)の六つの冥界のことで、人は因果応報(いんがおうほう)によって死後はこの六道を生死を繰返しながら流転、すなわち輪廻転生(りんねてんせい)するといいます。
「六道の辻」はそれら六道への入口の分岐点とされる場所で、いわばこの世とあの世の境。
古来よりお盆に冥土から帰ってくる先祖の霊は、この六道の辻を通るという信じられており、その入口がこの地にあるといわれ、表門の門前にはその石標が建てられています。
平安前期の延暦年間(782-805)、奈良・大安寺の住持で弘法大師空海の師にあたる慶俊(きょうしゅん)の開創と伝わり、古くは「愛宕寺(おたぎでら)」とも呼ばれたといいます。
また1002年(長保4年)の「東寺百合文書」の「山城国珍皇寺領坪付案」には、836年(承和3年)に山代淡海が創建したとの記録もあり、創建については諸説あるようです。
当初は真言宗で、平安・鎌倉期には東寺を本寺として多くの寺領と伽藍を有していましたが、中世の兵乱にまきこまれ荒廃。
その後南北朝時代の1364年(貞治3年)に建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)が再興し、臨済宗に改められて現在に至っています。
また平安時代の役人で学者でもあった小野篁(おののたかむら)がこの寺の井戸から冥界に入り、閻魔大王の助手を務めていたという伝説でも有名です。
この世とあの世を自由に往来できたという篁は、昼は朝廷で働き、夜は境内の井戸を通って、冥府の閻魔庁とを行き来していたという奇怪な伝説を持つことで知られています。
境内には薬師三尊像(京仏師・中西祥雲作)を安置する「本堂」のほか、境内には小野篁作と伝わる閻魔大王像と等身大の小野篁像を祀る「閻魔堂(篁堂)(えんまどう(たかむらどう))」、「地蔵堂」、「鐘楼」などの堂宇のほか、重要文化財の永久保存のための「収蔵庫(薬師堂)」には伝教大師最澄作と伝わる本尊・薬師如来坐像(平安期・重文)が安置されています。
また本堂裏の裏庭には、小野篁が冥界へ通った際の往還の通路として使ったと伝わる「冥土通いの井戸」「黄泉がえりの井戸」の2つの井戸があり、通常非公開ですが「寺宝展」などで特別公開された際に見学することが可能です。
境内の散策は自由ですが、堂内の拝観は有料で事前申し込みが必要。
重文の本尊・薬師如来や二幅の地獄絵などを見学することができます。