京都府京都市、主に京都市の中央を南北に通る堀川通に沿って流れ、京都市南部で鴨川に合流する淀川水系の河川。
堀川の起源は平安京の造営にあたって大内裏造営の資材運搬に用いるため、平安京の「堀川小路」、現在の堀川通付近に自然に流れていた川を改修・開削して水を引く形で「運河」として整備された人工の河川です。
ちなみに平安京のメインストリートである朱雀大路を挟んで対称の位置にも運河が開削されたため、西の西堀川(現在の紙屋川)に対し、現在の堀川は東堀川と呼ばれていたといいます。
また平安時代には物資の運搬のほかにも、堀河院や高陽、冷泉院など、周辺に邸宅を構えた貴族たちの庭園に水を供給する役割も担っていました。
そして中世に入ると堀川を利用して北山や丹波から木材を運搬するようになり、川沿いには多くの材木商が立ち並んで木材を載せた筏が数多く往来したといい、その当時の名残りは数軒残されている材木商と「丸太町」という通り名に残されています。
その後は農業用水として、染色に適した水質の伏流水であったことから江戸時代には染色業が盛んとなり、西陣の織物業者が堀川にて染料を洗い流す「友禅流し」を行う光景は、昭和30年代頃まで京都の風物詩として日常的に目にすることができたといいます。
ちなみに近世の堀川通は堀川の東西に設けられた小路で、東は「東堀川通」、西は「西堀川通」と呼ばれ、現在の「堀川通」は川の西側に沿って南北に続く西堀川通にあたります。
第二次世界大戦の戦時下の1945年(昭和20年)3月には、空襲の際の延焼防止策として通りの西側の民家に強制疎開の命令が出され、建物は強制撤去となったこともあり、戦後しばらくして堀川通は市街地整備の一環で幅員50mという大通りへと生まれ変わり、現在は片側4車線の自動車交通のための道路であるとともに道路の両側に数多くの高層ビルがそびえ立ち、また大勢の観光客を乗せた大型バスが堀川通沿いにある西本願寺や二条城へと行き交う光景が多く見られる通りとなっています。
一方堀川は度重なる水害に悩まされてきた街を浸水被害から守るため、豪雨時の雨水の放流先として位置付けられ、1960年代に市内の下水道整備により水流はほぼ消滅し、また何度も改修工事が行われて暗渠化され、暗渠化された区間は1980年代中期には自動車の増加を受けて道路拡幅の用地に充てられてその姿を消しました。
そして暗渠化されていない今出川通~押小路通間と西本願寺前についてもコンクリート張りの水路となり、堀川の形状は良く残されてはいるものの、およそ50年もの間、水源を断たれた普段は水の流れない川となっていました。
しかし堀川には京都を代表する観光地の一つである二条城や国際ホテルなどもあることからそれにふさわしい景観を求める声が上がり、1985年(昭和60年)には川沿いの25団体により美化団体「堀川と堀川通を美しくする会」が設立され、また近年、水辺の景観を評価する声が高まりを受けて、平成に入った1997年(平成9年)には堀川の水辺空間の整備を求める要望書が市に提出され、堀川の水流を復活させ、同時に押小路以北の川沿いを遊歩道として整備する「堀川水辺環境整備事業」が進められこととなります。
そして2002年(平成14年)、京都市により整備事業が開始されると、琵琶湖疎水第二疎水分線から導水して紫明通を経由して堀川通へと流れる水路が整備され、更に既存の開渠部である今出川~御池の区間の親水空間としての整備も行われ、2009年(平成21年)3月29日、通水式典が行われるとともに通水が開始されて事業は完成に至り、堀川にせせらぎが復活することとなりました。
現在の堀川は、琵琶湖疏水第二疏水分線の水を賀茂川を下越させて導き、紫明通・堀川通の中央分離帯の中に整備された水路を経て、今出川通の南で既存の開渠部へと繋げられ、一条通に架かる一条戻橋などを経て、御池通の一筋北の押小路通まで開渠部が続いていきます。
そして御池から南は再び暗渠となり、西本願寺の東側でわずかに地上に現れる他は堀川通の地下を流れていき、近鉄京都線の上鳥羽口駅の西で再び開渠となりますが、ほどなく南で鴨川と合流します。
この点、今出川通より北では地下を流れますが、2009年(平成21年)の工事にの際に紫明通から堀川通にかけ、中央分離帯の中に「せせらぎ公園」が第1親水公園から第7親水公園まで整備され、市民の憩いの場となっています。
また今出川通~押小路通間にも遊歩道が整備されていますが、川沿いには桜が数多く植えられていて、見頃の時期には「堀川さくらまつり」が開催されるほか、8月には新たな年中行事としてスタートした「京の七夕」のメイン会場として利用されるなど、堀川の河川敷は多くの市民に親しまれる空間へと生まれ変わっています。