京都市北区紫野北舟岡町、大徳寺や今宮神社の南側に位置する「船岡山」の西北部に整備された都市公園。
この点、「船岡山」は京都盆地の西北に位置する大文字山、通称左大文字山の南山麓に伽藍を構える金閣寺の東方約900mに位置する、標高約112m(111.7m)、長径約500m、周囲約1300m、面積約82,500㎡(約2万5千坪)の小丘で、その地形の形状が船に似ていることから「船岡」と呼ばれるようになったといわれています。
平安京の中央を南北に貫く朱雀大路の真北に位置することから、造都に際して船岡山は南北軸の測量基準点となったと考えられるほか、平安京の「四神相応」の玄武、青龍、朱雀、白虎のうち北の「玄武」=高山に当たるとされる山で、今も山内に鎮座する建勲神社境内の船岡妙見社には玄武大神が祀られています。
そして古来より景勝の地として知られ、王朝時代には京都に住む貴族の散策地とされたと言われ、また清少納言の「枕草子」の231段において「岡は船岡」と思い浮かぶ岡の中では一番手として名前が挙げられています。
室町時代には1467年(応仁元年)に勃発した「応仁の乱」に際して、西軍を率いる備前国守護・山名教之や丹後国守護・一色義直らが船岡山に船岡山城を建築して立て籠もった応仁の乱の史跡の一つでもあり、西軍の陣地となった船岡山を含む一帯が、それ以来「西陣」の名で呼ばれるようになったことは有名な話です。
また織田信長が「本能寺の変」で亡くなると、その後を継いだ豊臣秀吉は正親町天皇の勅許を受け、船岡山に天正寺という織田信長の廟を建設。
この計画は石田三成により頓挫したものの、一帯は江戸時代を通じて信長の霊地として保護され、1869年(明治2年)には明治天皇の宣下により、改めて船岡山に信長を祭る神社が作られることが決定し、1875年(明治8年)、船岡山の東南側に「建勲神社」が創設され現在に至っています。
1931年(昭和6年)7月14日に山全域が京都市風致地区に指定されると、1935(昭和10年)11月1日には都市計画公園の第一号として山の西北部側に「船岡山公園」が整備され、以来市民の憩いの場とされました。
その後、1968年(昭和43年)2月15日には山全体が国の史跡に指定されたほか、1995年(平成7年)3月27日には京都府の「京都の自然200選」にも選定されています。
約56,200平方メートルあるという公園内は豊臣秀吉の頃より織田信長の霊地として自然がそのまま残され、京都盆地特有の樹相が良く保たれており、その中を遊歩道が延び、東屋(あずまや)や藤棚なども整備され、散歩やハイキングに最適なほか、楽器の練習をする人の姿もよく見かけます。
また桜をはじめ様々な草花や木々が植えられていて、春は桜の名所としても有名なほか、ツツジ、ハギなどを楽しむことができます。
また頂上付近からの市街地の眺望が抜群なことでも有名で、中でも京都の夏を彩る風物詩「五山送り火」においては、鳥居形を除く四つの送り火を見ることができる送り火の観賞スポットとして多くの見物客で賑わいます。