京都市北区紫野十二坊町、千本北大路の交差点のやや南、船岡山の西を南北に通る千本通の西側にある真言宗智山派の寺院。
院号は九品三昧院と号し、山号は蓮華金宝山、本尊は延命地蔵菩薩。
一帯は古くは「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれ、東山の鳥辺野(とりべの)、嵯峨野の化野(あだしの)と並んで「平安京三大葬送地」の一つであり、また「五三昧」の一つともいわれ(三昧=火葬場)、周辺には墓地なども散在する場所でした。
寺伝によれば、飛鳥時代に聖徳太子が母の菩提寺として創建し、当初は「香隆寺(こうりゅうじ)」と称していたといわれています。
その後、平安中期の960年(天徳4年)に第59代・宇多法皇の勅願により真言宗の僧で宇多法皇から灌頂を受けた寛空(かんくう 882-970)が再興し、その際に寺名を「上品蓮台寺」と改めました。
かつては広大な寺域を有する大寺院だったといいますが、室町時代に入り「応仁の乱(1467-77)」の戦火で堂宇を焼失。
文禄年間(1592-96)に天下人・豊臣秀吉の帰依を得て寺領110石を寄進され、紀州根来寺の性盛(しょうせい)が復興。
この際に千本通を挟んで12の子院が立ち並ぶ広大な規模の寺院に復興されたことから「十二坊」の名で呼ばれるようになり、現在の周辺の町名「紫野十二坊町」の由来にもなっています。
その後、明治期の「上地令」で寺領の多くを失っており、現在は本堂のほか3つの塔頭寺院を残すのみとなっています。
本堂には村上天皇より賜った直筆の「上品蓮台寺」の勅額が掲げられ、本尊・延命地蔵菩薩像を安置。
また平安中期に東大寺の僧・奝然(ちょうねん 938-1016)が、宋から持ち帰り「三国伝来の霊像」として広く信仰を集めた清凉寺(嵯峨釈迦堂)の本尊・釈迦如来立像(生身如来)は、987年(寛和3年・永延元年)に宋から日本へ請来した際に一時期の上品蓮台寺に安置され、奝然の没後に清凉寺建立に伴って清凉寺に移されたといいいます。
境内にはこの他に平安後期の仏師・定朝(じょうちょう)の墓(非公開)、境内北側の真言院には酒呑童子退治と謡曲「土蜘蛛」で知られる源頼光の蜘蛛退治にまつわる頼光塚、空海の母の塔という阿刀氏(あとし)塔、室町時代の金工・後藤祐乗墓などがあることでも知られています。
また寺宝も数多くあり、前述の第62代・村上天皇勅額のほか、天平時代のもので上半分に絵が描かれた経典として有名で国宝にも指定されている紙本着色「絵因果経(えいんがきょう)」、絹本著色「文殊菩薩画像」(重文)、絹本著色「六地蔵画像」(重文)などの文化財を収蔵しています。
観光寺院ではありませんが、春は知る人ぞ知る桜の名所として知られていて、境内の参道を覆い尽くすように染井吉野(ソメイヨシノ)が咲き誇るほか、本堂の前の紅枝垂桜がとりわけ美しく、静かにゆったりと鑑賞することができます。