京都市北区紫野の船岡山の東南一帯に鎮座し、戦国時代の英雄・織田信長を主祭神とし、その子・信忠を配祀する神社。
正式には「たけいさおじんじゃ」でが、一般には「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」と通称され親しまれています。
創建は明治初期と京都の寺社の中では比較的新しく、1869年12月10日(明治2年11月8日)、「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一を目指して日本を一つにまとめた信長のおかげ」として、織田信長の功績を称え明治天皇の命により「建勲」の神号が与えられ、「健織田社(たけしおりたのやしろ)」の創建が決定。
翌1870年11月10日(明治3年10月17日)、信長の子孫にあたる天童藩知事・織田信敏の東京の邸内にて創建されました。
ちなみに同じく織田家旧領地の山形県天童市にも建勲神社が造営されています。
その後1875年(明治8年)4月24日、別格官幣社に列せられ、京都の「船岡山」に社地を賜ります。
この点、船岡山が選ばれたのは、この地が「本能寺の変」の後に信長が葬られた大徳寺(塔頭・総見院)の南に位置し、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地であったためでした。
1880年(明治13年)9月、新たに社殿を造営し東京より遷座し、1881年(明治14年)には信長の嫡子・織田信忠を配祀。
1910年(明治43年)、社殿を山麓から山頂へと移転し現在に至ります。
(元々は山麓の表参道を少し登った現在「大平和敬神」の石碑が建っている場所に本殿があった)
船岡山は平安京造営の際、四神相応の「玄武」の地として北の基点になったとされる標高45mの小高い丘で、平安京造営当時は大宮人の清遊の地として名高かった場所です。
(聖徳太子の文献にもその名が出てくるなど古くから京都文化の基点だった)
また「応仁の乱」の際には西軍の陣地となり、国の史跡にもなっています。
その他にも古代の京都盆地の植生がよく残されており、1995年(平成7年)に京都府により「京都の自然100選」第1号にも指定。
緑豊かな境内からは比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)など東山三十六峰の眺望を楽しむことができ、京都の夏の風物詩「五山の送り火」の観賞スポットとして有名な場所です。
普段は市民の憩いの場で、桜や紅葉の名所としても知られています。
そんな東山を見晴らすことができる絶景の地に本殿、拝殿、貴賓館、社務所などの建物が整然と立ち並び、境内には拝殿の織田信長、木下藤吉郎(豊臣秀吉)、柴田勝家らの肖像画や信長を一躍有名にした有名な「桶狭間の合戦」の出陣の際の「人間五十年 下天のうちをくらぶれば…」の「敦盛」の一節が刻まれた石碑など、信長ゆかりのものを各所で目にすることができます。
ご利益も祭神・織田信長の業績にちなみ、国家安泰・難局突破・大願成就。
行事としては10/19に開催の「船岡祭(船岡大祭)」が有名で、1568年(永禄11年)、信長が初めて京都に入った上洛の日を記念し開催され、信長ゆかりの宝物の公開や敦盛の舞や舞楽奉納、武者行列を従えた渡御や年によっては火縄銃の実射なども行われます。
近年は所蔵する国の重要文化財の日本刀「宗三左文字(そうざさもんじ)」が人気ゲーム「刀剣乱舞(とうけんらんぶ)」の影響により注目を集め、京都で刀剣にゆかりのある粟田神社、藤森神社、豊国神社とともに「京都刀剣御朱印めぐり」を不定期で開催し、特に若い女性を中心に人気を博しています。