京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町、京都御苑の北、臨済宗相国寺派の大本山・相国寺の西門を入ってすぐの所にある相国寺の塔頭寺院。
本尊は阿弥陀三尊仏(阿弥陀如来雲上来迎像)。
室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ 1358-1408)が臨済宗の僧で一山派、雪村友禅(せっそんゆうばい 1290-1347)の法嗣・太清宗渭(たいせいそうい 1321-91)を相国寺に迎請するため、その禅堂として「雲頂院」を創建したのがはじまりで、その後、雲頂院は兵火にかかり、亀泉集証(きせんしゅうしょう 1424-93)が文正・文明年間(1466-84)の間に創設した「瑞春軒」と合併。
江戸後期の1788年(天明8年)の「天明の大火」で焼失した後、弘化・嘉永年間(1848-54)に再建され現在に至っています。
この点、亀泉集証は美作国(岡山県)の赤松氏の被官・後藤氏の出身で、能筆家として知られ、中国・唐の書家である虞世南(ぐせいなん 558-638)の神髄を会得たといわれています。
室町末期に禅寺の僧事一般を将軍へ披露する「蔭涼軒主」として五山官寺を統轄し、幕府の政治に力をふるった季瓊真蘂(きけいしんずい 1401-69)の弟子となってその法を嗣ぎ、その後、8代将軍・足利義政に信任されて相国寺の蔭涼職を務め、蔭涼軒主の公用日記「蔭涼軒日録(おんりょうけんにちろく)」の大部分を筆録し、中世の禅宗史としてはもちろん、室町時代の政治史の重要な史料にもなっているといいます。
また1961年に雑誌「別冊文藝春秋」に掲載された後、同年の第45回直木賞を受賞した小説「雁の寺」の舞台として知られ、作者の水上勉(みずかみつとむ 1919-2004)は9歳で得度し、修行の辛さから13歳で寺を飛び出すまで雛僧としてここで修行し、その体験をもとに「雁の寺」を著したことで知られています。
水上は小僧として修業していた頃、当寺で見た鳥の親子の絵に離れた母への思いを強くしたといい、その思い出が名作を生み出したといいますが、直木賞を受賞し再訪するまではその鳥が孔雀であるのを雁だと思い込んでいて、そのため題名が「雁の寺」となったそうですが、偶然にも本堂内の和尚しか入ることができない雁の間に今尾景年の高弟・上田萬秋の筆になる襖絵「雁の絵」8枚があったそうで、この水上勉の小説から瑞春院は現在は「雁の寺」の通称でよく知られるようになっています。
本堂の本尊「阿弥陀三尊仏」は1439年(永享11年)に室町6代将軍・足利義教(あしかがよしのり 1394-1441)から寄進されたもので、平安時代の木像仏で阿弥陀如来像を中心に観音菩薩と勢至菩薩を脇に配し、雲上来迎の姿は他に例を見ないといいます。
庭園は境内の南北に2つあり、南庭「雲頂庭」は室町期の石組みがそのまま残っている禅院風の枯山水庭園で、一方、北庭「雲泉庭」は庭園研究で文化功労賞受賞者の村岡正が夢窓疎石の作風を取り入れて作庭した室町期風の池泉鑑賞式庭園で、園内には表千家の不審庵を模した茶室「久昌庵」があるほか、茶室の横には聞く者に安らぎを与える美しい音色の水琴窟があることでも有名です。