京都市東山区本町15丁目、九条通と東大路通が合流する東福寺交差点の南側に大伽藍を構える臨済宗東福寺派の大本山・東福寺の、九条通を挟んで北側にある東福寺の塔頭寺院。
山号は京城山、本尊は阿弥陀如来。
平安後期の1097年(永長2年)、第72代・白河上皇(しらかわじょうこう 1053-1129)が21歳の若さで亡くなった白河院最愛の皇女・?子内親王(郁芳門院)(ていしないしんのう(いくほうもんいん) 1076-96)の追善のため、六条内裏にあった遺宮を仏寺とし「六条御堂(ろくじょうみどう)」と称したのがはじまり。
白河天皇と中宮賢子との間に産まれた第1皇女・?子内親王は容姿端麗で施しを好む心優しい女性で、父・白河天皇の寵愛を一身に受けたといい、その死を大いに悲しんだ白河上皇は2日後に出家したといいます。
また六条内裏は東は高倉小路(現在の高倉通)、西は東洞院大路(現在の東洞院通)、北は六条坊門小路(現在の五条通)、そして南は六条大路に挟まれた東西一町、南北二町の敷地内にあり、現在その一部は六條院公園として整備されています。
その後、鎌倉時代には法然の弟子・湛空(1176-1253)が住し、更に十地覚空(じゅうちかくくう)・東山湛照(とうざんたんしょう)の師弟2人に引き継がれた後、正嘉年間(1257-59)に2人が東福寺の開山・円爾弁円(えんにべんえん)に帰依したのをきっかけとして浄土宗から禅寺に改められ、名も「万寿寺」と改称され、1261年(弘長元年)には開堂の儀が行われたといいます。
その後、1273年(文永10年)に火災に遭った後、1330年(元徳2年)には第96代・後醍醐天皇の父親である第91代・後宇多天皇(ごうだてんのう 1265-1324)の皇女・崇明門院(そうめいもんいん)から土地を賜り、旧地よりもやや北側の高倉通の西、樋口小路(現在の万寿寺通)の南(京都市下京区万寿寺通高倉付近)に移転されていて、このため現在一帯には「万寿寺町」や「万寿寺中之町」といった町名が残っているほか、京都の東西の通りの一つ「万寿寺通」としてその当時の名残りをとどめています。
そして南北朝の動乱に入った1340年(興国元年/暦応3年)には十刹の第4位、1386年(元中3年/至徳3年)には天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺に次ぐ「京都五山」の第5位に列せられるなど栄えていたといいますが、1434年(永享6年)の火災の後は衰退を余儀なくされます。
その後、天正年間(1573-92)、豊臣秀吉の都市改造計画に伴って同じく十地覚空と東山湛照が開山となって創建された東福寺山内の三聖寺(さんしょうじ)の隣に移されて両寺号を併称した後、明治維新後の1873年(明治6年)には三聖寺を合併して再び「万寿寺」を専称するようになり、1886年(明治19年)に東福寺の塔頭寺院となり現在に至っています。
ちなみに現在、東福寺の仏殿に安置されている本尊「釈迦三尊像」は、1881年(明治14年)に東福寺の仏殿が焼失した際に万寿寺から移された像で、元々は三聖寺に安置されていたものだといい、その他にも東福寺境内の「仁王門」および「愛染堂」、万寿寺の門前にある東福寺の「鐘楼」も三聖寺にあったものだといいます。
現在は非公開寺院となっており一般公開はされていないため観光目的での拝観はできませんが、御朱印の受付は行っているようです。