京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇、宇治田原町の荒木・郷之口両地区の氏神で、「田原祭(三社祭)」の三社を構成する神社。
奈良時代の770年(宝亀元年)6月、第49代・光仁天皇(こうにんてんのう 709-82)の勅命により、同年9月9日に雙栗天神社(双栗天神社)よりこの地へと遷宮されたのがはじまり。
その後、平清盛が源義朝らを倒して平氏政権を確立させた1160年(平治元年)の「平治の乱」にて炎上し、1301年(正安3年)に再建された際に現在の祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が祀られ現在に至っています。
また宇治田原には第38代・天智天皇(てんぢてんのう 626-72)の第7皇子・施基皇子(田原天皇)(しきのみこ ?-716)が屋敷を構えたという伝承があり、「天皇」という地名はこのことに由来するものだといい、本殿には皇子を祀る「田原天皇社」が合祀されています。
672年(天武天皇元年)の「壬申の乱」によって皇統が天武天皇の系統に移ったことから、天智天皇系の皇族であった施基皇子は皇位継承とは無縁の世界にて、万葉歌人として和歌などの文化の道に生きた人生でしたが、その没後50年以上が経過した770年(宝亀元年)に六男・白壁王が皇嗣に擁立され即位し第49代・光仁天皇となったことから「春日宮御宇天皇」の追尊を受け、また御陵所の奈良市矢田原町の田原西陵にちなんで「田原天皇」とも称され、その系統は光仁天皇の子であり平安京遷都を行った第50代・桓武天皇、そして現在の皇室へと続いています。
伝承では皇子は宇治田原の高尾と荒木に館を構え、そこで亡くなったために陵墓が作られたといい、天皇谷の入口、現在の大宮神社裏参道の横に田原天皇社が祀られたといいますが、明治になって大宮神社に合祀され、跡地には三宅安兵衛建立の石碑が建てられています。
また境内にある塔身四面に梵字の刻まれた「宝篋印塔」は、その施基皇子の菩提を弔うために建立されたものといわれ、鎌倉後期の作と推定され、町指定の文化財となっています。
現在の本殿は平治の乱と南北朝時代の2度にわたって焼失した後、江戸初期から中期に再建されたもので、三間社流造。
その他に末社として応仁天皇を祀る八幡社、紀諸人を祀る諸戸神社、そして早良親王(崇道天皇)を祀る御霊神社があり、これらの祭神は荒木地区の産土神として、はじめは大宮の社と称され、いつしか大宮大明神社と呼ばれるようになりました。
その他にも境内には神社の下の現在の中央公民館付近に7世紀後半に創建されたと伝わる「山瀧寺(さんりゅうじ)」の塔心礎であったといわれている手洗鉢や、文殊菩薩の梵字が刻まれた自然石「文殊曼荼羅の石碑」など、神仏習合時代の名残りを思わせる遺物が残されています。
行事としては毎年10月の体育の日の前日の日曜日に開催される「田原祭(三社祭)」が有名です。
南の御栗栖神社(一宮)をはじめ、荒木の大宮神社、立川の三宮神社を合わせた旧田原郷三社の祭礼で、3日前の「神幸祭」および当日の「還幸祭」にて3基の神輿が本社と御旅所の間を往復する、宇治田原町内で最大、南山城でも有数のお祭りとして知られています。
平安中期の939年(天慶2年)に起きた「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」を平定した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)(俵藤太(たわらのとうた))がその功績によって田原の領主となったことを祝ったのがはじまりといわれていて、元々は五穀豊穣を祝う秋祭りで、700年ほど前から続いているといい、奈良の春日大社若宮神社の例祭「春日若宮おん祭」に似た芸能(舞物)の奉納や駈馬神事、氏子の集団である15座の「宮座」による祭りの運営など、中世的要素が強く残ることから歴史的・資料的価値も高く、還幸祭で奉納される芸能(舞物)は京都府の無形民俗文化財にも登録されています。
他にも桜の隠れた名所として知られ、開花時期に夜間ライトアップが行われるほか、7月には半年の罪穢れを祓う「茅の輪くぐり」「夏越しの大祓式」、また大晦日から正月にかけての初詣期間には参拝者には甘酒や猪汁などが振る舞われ、多くの参拝者で賑わうといいます。