京都府舞鶴市鹿原、舞鶴市の東部、JR松尾寺にほど近い鹿原川沿いの谷奥に位置する真言宗東寺派の寺院。
山号は鹿原山、寺号は慈恩寺。本尊は波切不動尊。
「金剛院慈恩寺縁起」によれば、平安初期の829年(天長6年)、第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王(たかおかしんのう 799-865)によて創建されたと伝えられています。
高岳親王は第51代・平城天皇の第3皇子で、平城天皇は平安遷都を行った第50代・桓武天皇が崩御すると即位しますが、病弱な上子供たちも幼かったことから、平城天皇の弟である神野親王(のちの嵯峨天皇)が皇太子とされました。
その後809年(大同4年)に父・平城天皇が発病をきっかけに神野親王に譲位し第52代・嵯峨天皇が誕生すると、高岳親王は一度はその皇太子に立てられますが、平城上皇と嵯峨天皇の兄弟の対立をきっかけに起きた810年(弘仁元年)の「薬子の変(平城太上天皇の変)」で平城上皇側が敗れると皇太子を廃されます。
そして皇位継承争いなどに巻き込まれて世の無常を感じた親王は出家して法名「真如」を名乗り、弘法大師空海の教えを受けてその十大弟子の一人となり、高野山に親王院を開くなど「真如法親王」としてその名を知られるようになり、その後、862年(貞観4年)に高齢の身でならから大宰府を経て入唐し、更に天竺(インド)に渡ろうとしたものの途中で消息を絶ったといわれています。
金剛院を開いたのは平安初期の829年(天長7年)のこと、諸国行脚でこの地を訪ねた際、その幽景に「これぞ密教相応の地なり」として高野山から弁財天を勧請、大日堂、薬師堂、地蔵堂などの伽藍を整え、親王が白鹿の導きによりこの地を訪れたことにちなんで「鹿原山金剛院」と号しました。
親王が寺を去ってしばらくは荒廃していましたが、平安後期の1082年(永保2年)に第72代・白河天皇の勅願により本尊として波切不動明王を若狭国から勧請して復興し「慈恩寺」の寺号を賜ったとされ、更に第74代・鳥羽天皇の皇后・美福門院の帰依を受けて隆盛を極めたといいます。
その後度重なる戦乱により衰退しましたが、江戸時代には田辺藩主の庇護を受けて寺勢を回復し現在まで法灯を灯し続けています。
そして一帯は千年ガヤと親しまれているカヤの巨樹やイチョウの古木、シイ等の自然林が生育するなど、優れた歴史的自然環境を保持しており、加えて本堂や国の重要文化財の「三重塔」などの伽藍とも良く調和して美しい景観を形作っており、「金剛院京都府歴史的自然環境保全地域」に指定されています。
中でも「もみじ寺」の通称で呼ばれるようにとりわけ秋の紅葉で有名で、三重塔から本堂にかけての山の斜面を中心に植えられた約3000本のイロハモミジは安土桃山時代に丹後国を治めた細川幽斎(藤孝)が鶴亀の庭を作庭するとともに植樹したとも伝わっていて、「もみぢ葉の 色をしかへて 流るれば 浅くも見えず 谷川の水」などの古歌にも詠まれていることから、古くから紅葉の名所として知られていたと考えられていて、また三島由紀夫の小説「金閣寺」にも作品の舞台として金剛院の紅葉と境内の様子が描写されているといいます。
現在は紅葉の見頃の時期に合わせてライトアップが開催されるほか、「もみじまつり」も開催されており、また紅葉以外にも四季折々の草花を楽しむことができる花の寺として「関西花の寺」の3番札所としても親しまれています。