京都府綾部市広瀬町上ノ町、由良川の支流・上林川が由良川に注ぐ合流地点の東、西に上林川を見下ろす山麓の小高い丘に位置する史跡公園。
江戸時代に山家地区を治めた山家藩の藩主・谷氏の陣屋跡を公園として整備したもので、1987年(昭和62年)11月の開園、面積は21300平方メートル。
山家城は羽柴秀吉の家臣・谷衛友(出羽守)が「本能寺の変」後の1582年(天正10年)、播磨・備前での軍功により山家1万6千石を賜って美濃国より封ぜられ築いた城。
当初は和久氏時代の甲ヶ峰城にあったといいますが、山城は手狭で不便との理由からそれより少し山を下った位置に本格的な城郭ではなく陣屋構えの小規模なものが築かれたといいます。
谷衛友の父は谷衛好といい斎藤龍興の後に織田信長、羽柴秀吉に仕え、1576年(天正4年)の大阪本願寺攻めに軍功を挙げて家紋「揚羽蝶」を賜りますが、1577年(天正7年)に播磨国三木城の別所長治を攻城中に討死。
父とともに従軍していた17歳の谷衛友は父の亡骸を奪い返すとともにその仇を見事に討ち取り、その功績で秀吉から家紋「五三の桐」を受けるとともに6200石を加増され、山家に封ぜられたといい、城址内の灯籠には谷氏の「揚羽蝶」と「五三の桐」の紋が残されています。
谷衛友はその後「関ヶ原の戦い」の際に西軍に属し細川幽斎の田辺城を包囲しましたが、幽斎は谷衛友の歌の師匠であったためほとんど戦わず傍観していたとも、城に向けて空砲を撃っていたともいい「谷の空鉄砲」で名を残しています。
戦後は細川父子などの取り成しで本領安堵となり、更に2代・谷衛政の時、6000石を弟と甥などに分地し1万石となって以降は善政を敷き山家領内では江戸時代を通じて百姓一揆は1度のみだったといい、明治まで13代にわたり減封も転封もなく続きます。
山家陣屋は1870年(明治3年)の火災により焼失し、翌年の「廃藩置県」に伴う廃藩でそのまま廃されたといい、現在は園内に模擬櫓門が建てられて公園のシンボル的存在となっています。
ちなみに門の2階は「山家資料館」となっていて、谷氏の甲冑や古文書などの様々な資料が展示されているほか、また城の遺構としては公園の西側や北側に空堀や土塁、石垣が残るほか、園内には谷氏の祖先を奉った谷霊神社などがあります。
園内からは山家地域が一望でき、また自然林が多く残る緑豊かな公園として「京都の自然200選」にも選定され、地域住民の憩いの場としても親しまれ、更に園内には梅や桜、楓なども植えられており、とりわけ桜の名所として有名で、歴史を感じさせる櫓門と桜のコラボレーションが人気を集めています。
毎年4月上旬の日曜日には公園一帯で「山家さくらまつり」が開催され、山家太鼓の演奏や歌謡ショー、福餅まきや福引、ビンゴゲームなどのほか、地元特産品の販売も行われ賑わいます。
この他にも公園の向かいの山側には式内社の「伊也神社」があり、神社のある山の山頂には和久氏の中世の山城「甲ヶ峯城跡」もあります。