京都府綾部市味方町井上寺、JR綾部駅より南東へ約2.1km、新綾部大橋を渡って国道27号線を右折した先に位置し、古くは「三方郷」と呼ばれた所で、域内に古墳が多く、市内では最も早く開けた地方の一つだという「味方町」に所在する臨済宗妙心寺派の禅宗寺院。
山号は羅漢山(らかんざん)、本尊は釈迦如来坐像で、室町末期に西国三十三所に倣って作られ、近年廃れていたものの1984年(昭和59年)に再編されたという「綾部西国観音霊場」の第3番札所。
元々は当地にあった真言宗寺院の「井上寺」がそのはじまりであると考えられていますが、 現在その井上寺の名は周辺一帯の地名として残るのみです。
そしてその後、1518年(永正15年)の開祖・教山至道の寂年を元に、1580年(天正8年)頃の明智光秀による丹波平定に先立つこと半世紀以上前の永正年間(1504-21)に井上寺を再興する形で当寺が開創されたと伝えられています。
江戸中期の1753年(宝暦3年)には隣刹の2か寺とともに1647年(正保4年)に開創された綾部藩主・九鬼隆季(くきたかすえ 1608-78)の菩提寺「隆興寺」の末寺となったのを経て、明治期に入った1888年(明治21年)に他の寺院とともに臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺の末寺(直末)となり現在に至っています。
現在の堂宇は、江戸中期の1699年(元禄12年)に火災のため消失したものを、第5世・恒雲梵沙が再営し、さらに1790念(寛政2年)に第8世・観法祖伶によって再建立されたものですが、200年以上を経過して損傷も激しかったことから、2004年(平成16年)に第16世・義海の手によって本堂ならびに諸堂が再建され、更に弟子の17世・義方の代には庫裡が新築されたほか、駐車場が整備されるなど、平成の大改築によって全山の景観は一新されているといいます。
中でも本堂の裏山には山肌に沿って庭園が造られていますが、この庭は18体の垢抜けした表情の羅漢像が安置されていることから「十八羅漢大心字庭」と呼ばれています。
この点、「羅漢」とは「阿羅漢(あらかん)」ともいい、民衆と共にある仏者で、人々の供養を受ける資格のある人、尊敬に値する人、悟りを得た人という意味で、仏教の究極的真理を会得した最高の聖者に付けられた名称であり、その数には16、18、500などの種類がありますが、このうち十六羅漢は釈尊の入滅後800年を経て現在のスリランカに出現した慶友尊者(けいゆうそんじゃ=ナンダミタラ)はその著書「法住記(ほうじゅうき)」の中で、仏法を護持する羅漢として名を挙げている数だといいます。
「羅漢山」という山号および「宝住寺」という寺号もこの「法住記」に由来するものだと考えられているそうですが、「十八羅漢大心字庭」には十六羅漢に加えて「法住記」の著者である慶友尊者と、第一尊者の賓度羅跋羅堕闍尊者(ひんどらばらたじゃそんじゃ)の変身から生れたといい、撫で仏としてよく知られている賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)を加えた十八羅漢を祀っているそうです。
更にこの大心字庭の更に上の高台には「薬師堂」がありますが、堂内に安置されている「薬師如来坐像」は古代当地にあった井上寺の本尊であったと考えられる等身大で量感に溢れた檜(ヒノキ)の一木造の仏像で、平安末期(藤原時代)の作とされ、古くより霊験顕著な仏として多くの伝説が伝えられ、綾部市の重要文化財にも指定されています。
そしてこの薬師如来は禅宗の初祖・達磨大師の「七転八起」にちなんで「起き上り薬師」として信仰を集めるのみならず、毎年7月8日(現在は7月第3日曜日)には真言宗の開祖・弘法大師空海が薬師如来の本願によって病魔・悪鬼をきゅうりに封じ込め、無病息災や家内安全を祈念したのがその始まりと伝えられる「きゅうり封じ」の秘法が勤修される「きゅうり封じ薬師大祭」が行われることでも知られています。