京都府亀岡市宮前町猪倉土山、JR亀岡駅からバスで約30分、亀岡の城下町方面から国道372号線を西へ進み、湯の花温泉郷を越えた北側に位置する真言宗大覚寺派の寺院。山号は清瀧山(せいりょうざん)で本尊は不動明王。
創建は平安時代とも、鎌倉時代ともいわれており、詳細は不詳。
戦国時代の1575年(天正3年)に明智光秀がに初めて丹波の地に入って以来、当寺の本尊・不動明王を厚く崇敬したといい、1582年(天正10年)、歴史上の大事件である「本能寺の変」にて主君・織田信長を襲撃する決意をした際には、不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願、将兵はその加護を受け本懐を遂げたとされている。
その後、天下分け目の天王山「山崎の合戦」で羽柴秀吉に敗れ、居城・坂本城に向かう途中に山科・小栗栖で無念の最期を遂げしすが、側近の四天王の一人・溝尾庄兵衛が介錯をし、その首は生前に深く信仰していた当寺の不動明王のもとに運ばれ、密かに埋葬されたとされています。
「光秀公首塚」はその後、江戸後期の1855年(安政2年)に光秀を慕う幕末の志士によりその怨念を鎮めるために建てられといい、そこから「光秀寺」とも呼ばれるようになったといわれ、毎年命日にあたる6月14日には回向が行われています。
また明智光秀は丹波平定の拠点として1578年(天正6年)に「亀山城」を築いて後、亀山(現在の亀岡)の地において善政を敷き、今日の亀岡の基礎を築いた名君主として現在まで慕われており、1972年(昭和47年)にはその遺徳を偲んで日本国内最初の「明智光秀公顕彰会」が結成されていて、毎年5月3日には市民あげて光秀を顕彰する市内最大規模の祭典として「亀岡光秀まつり」が開催されていますが、開催にあたってはまず谷性寺の首塚墓前で追善供養を行った後、約500人の光秀公武者行列が城下町を練り歩きます。
この他にも光秀の首塚がまつられている谷性寺の境内やその周辺では、いつの頃からかその供養として明智家の家紋である桔梗の花が育てられるようになったといい、毎年初夏になると桔梗の花が一面に咲き乱れるところから「桔梗寺」とも呼ばれるようになったといいます。
そして昭和30年代からこつこつと植えはじめたという桔梗はいつしか寺の名物となり、2003年(平成15年)からは門前周辺の田畑も借り受けて約1万2千本の桔梗苗を植え「ききょうの里」として公開され、新たな観光スポットとなっています。
現在は規模を拡大して6月下旬から7月にかけて約5万株の桔梗のほか、藤や紫陽花、山吹色が印象的なルドベキアなど10数種類の草花を楽しむことができ、また期間中は谷性寺の本堂で明智光秀展や、亀岡の特産品やとれたての野菜を売る直売所も設けられ、多くの人で賑わいます。