京都府京田辺市田辺棚倉、JR京田辺駅および近鉄新田辺駅の西側、一休ゆかりの酬恩庵一休寺に向かう途中の府道22号沿いにある小高い丘に東面して鎮座する神社。
式内大社で、旧社格は郷社。
1526年(大永6年)の社伝「棚倉孫神社紀」によれば、飛鳥時代の623年(推古天皇31年)に相楽郡の棚倉之荘から高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請し祀ったのがはじまり。
高倉下命(天香古山命)は別名を天香古山命(あめのかごやまのみこと)、また手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)ともいい、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の曾孫(ひこ)にあたり、天神(あまつかみ)の直系の神様で、「古事記」や「日本書紀」によれば天孫降臨(てんそんこうりん)に際し父神である饒速日命とともに降って紀州熊野に住み、神武天皇の東征の際には布都御魂(ふつのみたま)の神剣を献上し、熊野で荒ぶる神の毒気にあたって気絶していた神武天皇とその軍勢を救い大功を立てたことで知られています。
この点、社名の「棚倉孫(たなくらひこ)」は別名の手栗彦(たなくりひこ)が転じたものといわれていますが、その一方で「棚倉」とは湿気を避けるための床を設けた穀物を収蔵する倉庫のことで、養蚕にも用いられたといい、筒城(綴喜)は古来より渡来人による養蚕の盛んであった地域で、蚕はその貴重さから「天の虫」とも呼ばれ、その蚕の棲む倉を崇めて神格化し、神社を創建して祀ったのがはじまりではないかとも考えられています。
平安初期の859年(貞観元年)正月27日の「日本三代実録」にて従五位上の神位に叙せられた諸神に「棚倉孫神」と記されており、また平安中期の927年(延長5年)にまとめられた「延喜式神名帳」では式内大社に列しており、この頃には既に格式ある神社であったことが分かります。
江戸時代には「天満宮」あるいは「天神社」と呼ばれ、天神を祀っていたといい、一帯はこれにちなんで「天神ノ森」と称し、その産土神として崇敬を集めていたといい、江戸中期の1702年(元禄15年)には淀藩4代藩主・石川憲之の崇敬を集め、石鳥居・石段・石橋などが奉納された他、毎年御供料の寄進を得たといい、そのときの寄進状が残っているといいます。
そして明治期になって式内「棚倉孫神社」と改められ、1931年(昭和6年)2月には郷社に列格しています。
現在の本殿は一間社流造、屋根は檜皮葺きで、桃山期に再建されたもので京都府登録文化財に登録され、本殿脇には「天正二年(1574年)」の銘を持つ石燈籠も残されています。
また広い境内には本殿の他にも江戸中期の拝殿や多くの絵馬が掲げられる絵馬殿、元の神宮司であった旧松寿院の建物で現在の社務所など江戸時代の建物がよく残り、その一方で境内にはクスノキやシイなどの常緑広葉樹が繁茂していて、その全域が文化財環境保全地区に指定されて環境の保護が図られています。
そして神社を語る上で欠かせないのが秋の例祭に合わせて製作される「瑞饋神輿(ずいきみこし)」で、五穀豊穣に感謝して高さ3m、1.5m四方の神輿を赤瑞饋、大豆、玄米、千日紅の花、青唐辛子、鷹の爪など収穫された約30種類の野菜や穀物などで飾り付けるもので、屋根が里芋の葉柄である瑞饋(ずいき)で葺かれることからこのように呼ばれています。
明治中期頃から造られるようになり、1929年(昭和4年)をもって一時中断していたものの、1975年(昭和50年)に一部の模型を制作し、更に1978年(昭和53年)に「瑞饋神輿保存会」が結成されると、以降は隔年で製作されて10月の体育の日に京田辺の氏子区域内を賑やかに巡行していて、京田辺市の無形文化財にも登録されています。