京都府京田辺市薪(たきぎ)にある臨済宗大徳寺派の寺院。
山号は霊瑞山(りょうずいさん)で、本尊は釈迦如来。
一休禅師が晩年を過ごしたことから、「一休寺(いっきゅうじ)」「薪(たきぎ)の一休寺」「薪寺」とも呼ばれています。
枯山水の石庭や一休宗純の木像があることで知られ、秋は紅葉の名所。
また納豆の一種である「一休寺納豆」でも有名な寺院です。
鎌倉後期の正応年間(1288-93)、絶崖(ぜつがい)宗卓が中国の虚堂和尚に禅を学んだ臨済宗の高僧・南浦紹明(大応国師)(なんぽじょうみょう)を開山に、大応国師の帰朝後の禅の道場として開いた「妙勝寺」が前身。
その後、元弘年間(1331-34)に兵火にあって衰退していたのを、室町時代の1456年(康正2年)(康正年間(1455~56)?)に六代の法孫で、とんちの「一休さん」の説話のモデルとして有名な一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が、63歳の時に妙勝寺の荒廃を嘆き中興。
大応国師の遺風を慕って堂宇を再建し、師恩に酬(むく)いる意味で「酬恩庵」と名づけました。
その後一休は81歳で大徳寺住職となった後にもこの寺から大徳寺に通ったといい、1481年12月12日(文明13年11月21日)に88歳で亡くなるまでの人生の後半をここで過ごし、遺骨は当所に葬られました。
本堂は室町幕府6代将軍・足利義教により建立されたもので、小さいながら唐様(からよう)で変化に富み、室町時代の禅宗仏殿の典型として国の重要文化財にも指定。
また江戸初期の1650年(永禄3年 慶安3年?)には加賀藩主・前田利常により方丈、庫裏(庫裡)、唐門、東司、鐘楼、浴室などの伽藍が復興され、同じく国の重要文化財に指定されています。
このうち方丈には狩野探幽によって描かれた襖絵(障壁画43面)が納められているほか、東司は仏教寺院における便所にあたる堂宇ですが、重文指定されているのは国内では東福寺と酬恩庵だけだといいます。
枯山水が有名な方丈庭園と虎丘庭園(こきゅう)からなる酬恩庵庭園は国の名勝。
苔に覆われしっとりと風情のある静かで落ち着いた境内は四季それぞれに風情があり、中でも秋の紅葉、初夏の新緑は色鮮やかで趣が深いことで知られています。
寺宝も多く、多数の重要文化財を所蔵し、一休禅師の木像・画像、後花園(ごはなぞの)天皇宸翰(しんかん)女房奉書とともに国の重要文化財に指定。
中でも方丈中央に安置する木造一休禅師像(重文)は逝去の年に高弟に作らせた等身大の像で、髪や髭は一休が自分のものを植え付けたといわれています。
一休が中国からの製法をもとに伝授し、今も代々住職のに伝えられ製造されているという名物「一休寺納豆」は方丈で試食することができるほか、庫裏で授与されています。