京都府京田辺市普賢寺下大門、京都南部のJR・近鉄「三山木駅」から西へ約2km、同志社大学京田辺キャンパスにほど近い場所にある真言宗智山派の寺院。
山号は息長山(そくちょうざん)。本尊は十一面観音。「大御堂」「普賢寺」などとも呼ばれています。
7世紀後半に壬申の乱に勝利して即位したことで知られる第40代・天武天皇(てんむてんのう ?-686)の勅願により法相宗の僧・義淵(ぎえん 643-728)が創建した「観心山親山寺(筒城寺)」がはじまり。
その後、奈良時代の744年(天平16年)に東大寺を建立し奈良の大仏を造立したことで知られる第45第・聖武天皇(しょうむてんのう 701-56)の勅願により華厳宗の僧で東大寺初代別当・良弁(ろうべん 689-773)が中興。
二月堂の「十一面悔過会(けかえ)」、通称「お水取り」をはじめた人物とされている良弁の高弟・実忠(じっちゅう 726-824?)を第1世とし、伽藍を増築して「息長山普賢教法寺」と号し、本尊として十一面観音立像を安置したといわれています。
法相・三論・華厳の三宗を兼ね、778年(宝亀9年)には五重塔が建てられるなど、七堂伽藍は壮麗を極め「筒城の大寺(つつきのおおでら)」と呼ばれる大寺院であったと伝えられていますが、794年(延暦13年)のものをはじめ幾度となく火災に見舞われ、奈良・興福寺の別院でもあったことから藤原氏の援助によってその都度復興されましたが、藤原氏の衰退とともに寺勢も衰えていきます。
とりわけ1437年(永享9年)の火事では、13の諸堂ならびに20余りの僧坊など建物のほとんどが失われたといい、更に1565年(永禄8年)の焼失以降は大御堂を残すのみとなったといい、現在の「本堂(大御堂)」は1953年(昭和28年)に再建されたものだといいます。
現在の寺名は「大御堂観音寺」となっていますが、古代・中世には普賢寺と呼ばれていたといい、その名残はこの周辺一帯の地名「普賢寺」としてとどめられています。
また境内の西、本堂裏の丘陵上には塔の礎石「塔心礎」が残り、奈良時代末期から平安初期頃の作とされる古瓦が出土することから、ここが古代の普賢寺の遺構と推定されています。
本堂に安置されている本尊・十一面観音立像は744年(天平16年)の良弁の開基時の仏像で、奈良時代を代表する天平仏の代表的な仏像として1953年(昭和28年)に国宝に指定されていて、日本に7体しかない国宝の十一面観音の一つだといいます。
像高172.7cmの等身大の木真乾漆(もくしんかんしつ)造で、少年のような初々しい顔だちや引き締まった肉付きの良い体驅など、天平彫刻特有の緊張感が見られ、奈良・聖林寺の十一面観音とともに官営の造仏所で同じ奈良時代の後半頃に製作されたものと考えられています。
その他に周囲ののどかな里山の風景と良く調和する境内は桜やや紅葉の名所としても名高く、とりわけ春の桜の時期には参道の桜並木と一面に黄色い絨毯(じゅうたん)の景色が広がる菜の花畑とのコラボレーションが実に見事なことで有名です。
京田辺市観光協会が毎年秋の稲刈り後に田んぼ約67haを農家から借りて菜の花の種を播いているといい、菜の花畑は自由に摘み取れるように一般開放され、美しい景色を楽しもうと多くの市民や観光客が訪れます。
ちなみに東大寺の二月堂で行われる有名な「お水取り」で用いる籠松明の竹は、当寺院の近くで切り出した竹が使われているといい、2月11日に竹を二月堂まで運ぶ「竹送り」は戦争などで一端途絶えたものの、1978年(昭和53年)には復活し、現在まで続けられているといい、境内の鐘楼のそばにはそのことを示す「二月堂竹送り復活の地」の石標が建てられています。