京都府木津川市加茂町例幣、京都府南端の木津川市にあるJR加茂駅から北へ、恭仁京のあった瓶原(みかのはら)地区を見下ろす標高473mの三上山(海住山(かいじゅうさん))の中腹に位置する真言宗智山派の寺院。
山号は補陀洛山、本尊は十一面観世音菩薩。
奈良時代、恭仁京が造宮されり約6年前の735年(天平7年)、盧舎那仏(奈良の大仏)の造立を発願した聖武天皇の勅命により、工事の平安を祈願して東大寺の初代別当・良弁(ろうべん)に一宇を建てさせたのがはじまり。
寺の縁起では寺院建立の際に地面より湧出したと伝わる十一面観音菩薩像を本尊とし当初は「藤尾山 観音寺」と呼ばれ栄えますが、平安後期の1137年(保延3年)に火災で伽藍を焼失してしまいます。
その後、鎌倉時代の1208年(承元2年)に法相宗の僧で南都随一の学僧と名高かった笠置寺の解脱上人貞慶(じょうけい 1155-1213)が、観音寺跡に草庵を結んで移り住み「補陀洛山 海住山寺」と改めて中興。
貞慶は元々は興福寺に属したが、南都仏教の堕落と俗化を憂い、1192年(建久3年)に南山城の笠置寺に移り、当時勢力を増しつつあった専修念仏の浄土宗を激しく批判し、戒律の復興に努めた人物で、また「海住山寺」の名は、観音霊場であることにちなみ、海は観音の衆生を救済しようという誓願の広大であることを表わしてそこに安住するという意味があるといい、インド仏教において観音の住みかは南方の海中にある補陀落山にあるとされていることになぞらえているといいます。
そして更に貞慶の後を継いだ慈心上人覚真(かくしん 1170-1243)(藤原長房)は先師の遺志を受け継いでますます戒律を厳しくし伽藍の復興に努めたといい、その後、寺運は隆盛に達して最盛期には58の塔頭が立ち並ぶ大寺院だったといいますが、豊臣秀吉によって「太閤検地」が行われた天正年間には現在の本堂を中心に整備統一され、明治期に法相宗本山・興福寺の末寺から真言宗智山派となり現在に至っています。
現在はとりわけ厄除寺として知られ、現世利益の根本道場としてし知られていて、1万坪の境内には、国宝の五重塔や重文の文殊堂をはじめとする数多くの堂宇が整備されているほか、やる気地蔵をはじめとするさまざまな地蔵が境内を訪れる参拝者を温かく見守っています。
そして海住山寺を最も有名にしているのが、1214年(建保2年)に慈心によって建造された「五重塔」で、現存する鎌倉時代に建造された唯一の五重塔であることから国宝にも指定されています。
また高さがわずか17.1mしかなく、屋外にあるものとしては室生寺の五重塔に次いで日本で2番目に小さいものである点や、仏舎利を納めるための建物として建てられたことから仏間とされる1階(1層目)には心柱を通さず、心柱が2階(2層目)から上へと伸びているのも非常に珍しく、更に1962年(昭和38年)の解体修理にあたっては初重の屋根の下の「裳階(もこし)」が復元されていますが、この初重の軒下に裳階(もこし)を持つという五重塔は、現存する五重塔の中では奈良の法隆寺と海住山寺のみという珍しいものです。
その他にも仏舎利を安置する厨子のある内陣の8枚の扉には建立当時に色鮮やかな彩色で描かれた梵天や帝釈天、比丘像などが描かれているなど内部の装飾が美しいことでも知られ、これら内陣の様子は通常拝観時には見ることができませんが、紅葉の見頃の時期に合わせるように毎年10月下旬から11月上旬の時期に「海住山寺文化財特別公開 五重塔開扉」として、他の数多くの貴重な寺宝などとともに特別公開されています。