京都市左京区静市静原町、京都市北部、鞍馬・貴船と大原の間に位置する「静原」の地に鎮座する神社。
祭神として伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る神社です。
「静原」は京都市左京区の北側、鞍馬の南にある叡山市原駅付近から大原の西側にかけて南北に広がる「静市(しずいち)」と呼ばれる地域の一つで、静市は静原のある静市静原町のほか、静市野村の中心地で小野小町終焉の地とされる補陀洛寺(小町寺)や京都市登録無形民俗文化財「市原ハモハ踊・鉄扇」で有名静市市原町や静市野中町の3つの町で構成され、元々は市原村・野中村・静原村と別々の村として愛宕郡に属していましたが、1889年(明治22年)に合併して静市野村となり、更に1949年(昭和24年)に左京区に編入されて現在に至っています。
静原は叡山市原駅近くから府道40号を北東の大原へとすすんだ中間あたりにある150世帯、500人規模の静かで美しい集落で、車で約30分と市内中心部に比較的近いにもかかわらず、周囲を山に囲まれ、水田や田畑の広がる風光明媚な里山の風景を今も色濃く残す地域で、春は桜道、夏は緑の山々、秋は紅葉、そして冬は雪景色と四季折々の美しい景色が楽しむことができます。
静原神社はその静原の集落の中央に位置し、創建の詳しい経緯は不明ですが、社伝によれば4世紀、第13代・成務天皇の時代の322年(成務天皇12年)3月午日に山城国愛宕郡志津原にて創建されたのがはじまりと伝わる。
伊弉諾尊が高天原に座し、瓊瓊杵尊が日向の高千穂に天降り、はじめは静原楢小川の上流「河合谷意美和良川」に鎮座していたといい、古来より御本社に伊弉諾尊、奥御前に瓊瓊杵尊を祀ったことから合わせて「二宮社」と呼ばれていたといいます。
その後、天武天皇が逆徒に襲われここに臨幸した際、身も心も静かになったことから、以来、志津原を「静原」と称するようになったといい、更に刀・弓・矛などを神社に奉納し敵の退散がなったことから江州浅井郡の地330石が寄付され、和銅4年3月3日より祭祀が始められたといいます。
その後、天正検地で300石は没収されますが、秀吉より下鴨社領として30石が定められて明治に至っており、そのため「静原沙汰人(しずはらさたにん)」と称して下鴨神社の「御蔭祭」に奉仕する例が現在も続けられているほか、また「葵祭」に使われる二葉葵(フタバアオイ)は当社より献上していたといいます。
行事としては毎年5月3日に開催される「春季祭礼」が知られていて、当日は午前に「御幸持ち(みゆきもち)」と呼ばれる行事が行われた後、午後には子供神輿を先頭に神輿が静原を巡行する「神輿巡行」が賑やかに行われます。
この点「御幸持ち」とは、神様への供物を頭上に戴せた稚児が「静原神社」「天皇社」「若宮神社」と集落を練り歩くもので、稚児は地元の小学校高学年の少女たちが勤め、祭に花を添えます。
そしてこの「御幸持ち」は5月の「春季祭礼」の他にも、10月の「秋季祭礼」と12月の「御火焚き祭」の日にも行われているそうです。
また静原には鎌倉時代の武家の間で行われていたという元服の儀式「烏帽子儀(えぼしぎ)」が現在にまで伝えられていて、18歳になった男性は儀式に参加し成人になった証しとして烏帽子を被り成人を迎えるといいます。