京都府京都市左京区上高野、叡山電鉄の八幡駅で下車して徒歩2分の所に鎮座。
小野妹子ゆかりの神社であり、応神天皇(八幡大神)を祀る八幡神社の一つです。
社伝によると、6~7世紀頃、推古天皇の時代に小野妹子が聖徳太子の命により遣隋使として隋に向かう途中、北九州の築紫(つくし)の辺りで病気になりますが、近くにあった現在は八幡宮の総本社として知られる大分の「宇佐八幡宮」に病気平癒を祈願するとたちまち病から回復。
随に渡った後も数々の危難を免れ、無事に役目を果たし帰国することができたことから、後に聖徳太子が没し自らの所領である山城国愛宕郡小野郷(上高野)の地に移った際、感謝(報恩)の意を込めて八幡神を勧請しこの地に祀ったのがはじまりとされています。
その後南北朝時代に南朝の忠臣で後鳥羽上皇の第四皇子・頼仁親王の血を継ぐ児島高徳、別名備後三郎三宅高徳(生没年不詳)がこの地に移り住むと、厚く八幡大神を尊崇し邸内の鎮守としたことから、いつしか「三宅八幡宮」と呼ぶようになったのが社名の由来といいます。
広大な社殿を持ち神田などもあったといいますが、「応仁の乱(1467-77)」の戦火により全焼。
数十年後には里人・近隣住民の献身的な努力で復旧されますが、本格的な復興は明治時代に入ってからのことで、1869年(明治2年)に拝殿、1887年(明治20年)に本殿・社務所が再建されました。
元々田んぼの虫除け、虫封じの神が祀られていたことから、虫退治の神として害虫駆除に効果があるとされ、別名「虫八幡さん(むしはちまんさん)」と呼ばれ親しまれています。
また皇室とのゆかりも深く、明治天皇が幼少の頃に重い病を患った際に、神社に祈祷を命じたところ、祈祷の甲斐あって天皇の病が治ったといわれています。
そしてこのエピソード以来、ご利益を授かろうと多くの親子連れが参拝するようになり、「子どもの守り神」として広く信仰されるようになったといい、夜泣きや「子供のかんの虫」封じ、子供の「病気平癒」「学業成就」、安産などにご利益のある社として知られるようになりました。
とりわけ明治末期にかけては、田んぼの虫除けから転じた子どもの疳の「虫封じ」の信仰が隆盛を極めたといいます。
八幡神を祀ることから、境内にはその使いである鳩の姿が多く見られ、本殿の南側の鳥居前には神の使いとして狛犬ならぬ「狛鳩」が参拝者を出迎えるほか、拝殿の幕や石燈籠や瓦、絵馬などにも鳩の姿を見つけることができます。
また境内には本物の鳩もいて参拝者はエサをあげることができるほか、境内の売店には門前名物として「鳩餅」が販売されています。
行事としては9月15日の例祭「三宅八幡放生会」が五穀豊穣を感謝する秋の大祭として有名で、境内には露店が所狭しと立ち並び、多くの参詣者で賑わいます。
その他の見所としては、100年ぶりに行われた絵馬堂の整理で、絵馬堂および拝殿に嘉永以後明治に奉納された当時を偲ぶ絵馬が153枚と大量に発見され、これらのうち124枚が、かんの虫退治の信仰の広がりを物語る民俗文化の貴重な資料「三宅八幡神社奉納子育て祈願絵馬」として、2009年(平成21年)1月16日に国の重要有形民俗文化財に指定されています。