京都府八幡市八幡馬場、八幡馬場の男山中学校跡地の馬場運動広場南側、男山の南麓、東高野街道沿いにある律宗寺院で奈良・唐招提寺の末寺。
鎌倉時代の1257年(正嘉元年)、石清水八幡宮の検校職にあった善法寺宮清(ぜんぽうじみやきよ)が、自らが帰依した奈良・東大寺の実相を招いて私宅を寺に改めたのがはじまりで、寺号は家号の善法寺と律宗であることから「善法律寺」としました。
室町時代には宮清の孫にあたる善法寺通清の娘・良子が室町幕府第2代将軍・足利義詮に嫁ぎ、のちの第3代将軍・足利義満を生んだことから、足利将軍家の庇護を得て隆盛を極めたといいます。
義満は神社信仰に篤く、とりわけ八幡宮を崇敬していたことから八幡を20数回も訪れているといい、以後の義教、義政も足繁く往来したといい、将軍家と善法寺家との密接な関係が続きました。
境内には本堂を中心に庫裡、阿弥陀堂、聖天堂が配置され、このうち本堂は、内陣を高御座(たかみぐら)と呼ぶ神仏混淆(こんこう)の五間四方の堂で、弘安年間(1278-88)に石清水八幡宮の旧社殿の材の一部を用いて建立したものです。
そして本堂に安置されている本尊・八幡菩薩神像(僧形八幡坐像)は、かつて神仏習合期の石清水八幡宮に祭神として安置されていたもので、1868年(明治元年)の「神仏分離令」によりこの地に遷されました。
等身彩色の座像は平安末期のもので、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、両脇を固める脇仏は不動明王・愛染明王の2体の明王で、鎌倉時代の作。更に奥殿には石清水八幡宮の宿院頓宮にあったという宝冠阿弥陀如来坐像(南北朝時代)や千手観音菩薩立像(鎌倉時代)もあり、多くの寺宝を収蔵しています。
この他にも境内の放生池の畔には、かつて大乗院にあったものとされる鎌倉時代の五輪石塔や石地蔵が並んでいます。
また足利義満の母・良子は自身が好きであったという紅葉の木を寺に数多く寄進したといわれており、現在の境内も楓の木が多く「紅葉寺」の別名を持つ紅葉の名所として知られています。
11月中旬~12月上旬までの間、境内のいたる所で大小合わせて150本近くのもみじが色づき、燃えるような真っ赤に染まった美しい風景を楽しむことができます。